教科書に載るというのは強いもので、夏目漱石の『こころ』とともに、本作はたいへんよく読まれている小説である。
ここには悪とよばれる人間の行動、一般の人間にも当てはまるように言えばエゴイズムが書かれている。
登場する下人の悪は、ちょっとした思いつきや遊ぶ金欲しさの悪ではない。下人は悪事でも働かねば餓死する極限なのだ。人間は生きるためなら最終的になんだってする可能性があること。それをしないのは倫理観というより「勇気」がないだけではないか、という問いがつきつけられる。
明らかな悪事とはいかなくても、大人になるとたいていの人間は少しずつ阿漕な事もするものだ。ほとんどの凡人・凡夫は高潔なまま生きているというわけでもない。そうすると、主人公として下人にある程度感情移入しているということもあり、読者に下人を責める気持ちがおきにくい。下人のしたことは、それでもしてはいけないことだと断ずる人に、綺麗事はやめろと難じる人もあるかもしれないし、綺麗事を言う人もどこかにいないといけないだろうと考える人もあるかもしれない。読者の心は揺れる。読者が主人公を中心において物語を読むことを芥川龍之介は見こして本作を書いていると考えられる。
詐欺師の女、死体の髪を毟る老婆、追いはぎをする下人と、他人にしたことを自分がされても文句は言えないはずだ、という悪の因果応報ともいうべき事態が書かれる。しかしこの論理がいつか下人自身に襲いかかってくるかもしれない。下人はこの話の後、いっぱしの盗賊稼業へ一歩を踏み出すかもしれないし、悪の因果応報によって自分も奪われ、踏みつけにされ、文句は言えないはずだよなと叩きのめされるかもしれない。
このように人間を追い込むのはその人の人格のせいだろうか。同じ人物でも余裕があるなら、悪事は働いていないのではないか?
近代西欧では、悪事を愉しむような人間と、生活のため悪事を働く人間をわけ、その人物の人格の問題として罰をあたえて済ますより、社会全体を改善したほうが良いのだという考え方が生まれる。罪人には刑罰より更生・矯正を考えるべきという思想が出てくる。芥川龍之介が社会改善まで考えて本作を書いたとは言い切れないが、現代の教科書に載っているというのは、登場人物の心理の問題(国語読解としての問題)を考えさせるだけでなく、心理が社会状況を反映しているものだということまで子供たちに考えてほしいからではないかと筆者なりに推察する。
芥川龍之介は、文学的良心として、小説とは人間の本性を描き出さなければならないと考えていたはずだと筆者は思う。もちろん当時のほかの作家もそう考えている人は多かったろうし、今もそう考える人は少なくないと思う。
読む人は本作に善悪問題、場合によっては一種の教訓を読みとろうとするかもしれない。教科書もそれを期待しているのかもしれない。ただ作者芥川は、悪とはという抽象論より、「人間」というやつを描写してみせるとこうなる、ということを近代人の一人としてやってみせたというのが正確なのではないかと筆者は考える。それ以上は読者の問題なのだし、小説というのはそれでよいということだ。
芥川龍之介は悪を肯定している? 生きることが優先されるのだから善悪は第一の問題ではないと言っている? 少なくとも生活のための悪事は仕方のないことだと言っている?
本作が何を言いたいのかよくわからない、釈然としないという感想もあるようだ。芥川龍之介は何を言いたかったのか、と考えても分からないまま止まってしまうのではないだろうか。作者の意図を考えるのが常によくないとまでは言わないが、そういう読みがすべてではない。大事なのは、読み手である私はこれを読んで何を考えたかということだ。筆者は本作が教材としてどの程度適当かということはわからない。言えるのは、読んだ私が何を考えるかが大事という読み方の入門編にはなるかもしれない、ということだろうか。