春にして君を離れ [アガサ・クリスティー]

砂漠 小説を読む

 アガサ・クリスティーといえば言うまでもなく、推理小説作家として有名であり、注目すべき作品はほかにも多くあるが、ここでは『春にして君を離れ』をとりあげる。この作品はアガサ・クリスティーの他作品と毛色が違っていて、推理小説ではない。広い意味でのミステリーに加える意見もあるが、殺人がおこり、探偵が登場し、事件が解決するというスタイルの小説ではない。作者はアガサ・クリスティー名義で出版せず、メアリ・ウェストマコット筆とされていた。
 小説の大半は回想で、主人公ジョーンの口から、自身の平穏でまっとうな結婚生活が語られる。その一方、すでに前半から、ジョーンの感想とはうらはらに、この人は「お母様には何を話しても無駄よ」と家族から言われていやしないかという不穏な予感を、読者はもつ。主人公の視点で書きながら、読者に主人公の考えへの疑問を持たせる、おもしろい書きぶりである。
 「春にして君を離れ」という題名は、シェイクスピアのソネット(十四行詩)からとられている。旅先で足止めをくったジョーンが、ロンドンにいる愛しい夫ロドニーのことを思う。その時に浮かんだのが「春にして君を離れ」という詩だ。でも今は春じゃないわ、十一月じゃありませんか。そう思った時ジョーンは愕然とする。以前にも同じようなことがあった。ロドニーがシェイクスピアのソネットを思い出せず、ジョーンに尋ねたので、ジョーンはかわりに暗誦してあげた。「心なき風、可憐なる五月の蕾を揺さぶりて」だが今は十月じゃないか? あの時ロドニーはそう言ったのだ。この相似形の意味するところをジョーンは気づかずに、いや考えまいとしてきた。これは同時に読者への謎かけだが、ほとんどの読者にはぴんとくるのではないかと想像する。それはロドニーの、他人の妻レスリー・シャーストンへの愛である。しかもロドニーは「可憐なる五月の蕾」と「実ある心の婚姻に」の詩を混同して正確に思い出せずにいた。レスリーへの愛が「実ある心の婚姻」であることを連想させる。小説本文中で引用されるように、それは「まことの恋」と詠われているのである。
 「春にして君を離れ」(ソネット98番)、「可憐なる五月の蕾」(ソネット18番)は小説本文中には一部があるだけで引用はされていないので、以下にシェイクスピアのソネット原文を引用する。

Sonnet 98
From you have I been absent in the spring,
When proud-pied April, dress’d in all his trim,
Hath put a spirit of youth in every thing,
That heavy Saturn laugh’d and leap’d with him.
Yet nor the lays of birds, nor the sweet smell
Of different flowers in odour and in hue,
Could make me any summer’s story tell,
Or from their proud lap pluck them where they grew:
Nor did I wonder at the lily’s white,
Nor praise the deep vermilion in the rose;
They were but sweet, but figures of delight,
Drawn after you, you pattern of all those.
Yet seem’d it winter still, and, you away,
As with your shadow I with these did play.

 一行目の「absent in the spring」が、とられている題名である。詩の内容は、こんなにすばらしい春も君がいないのなら味気ないと詠っている。この中にsummerという単語が出てくるのもおもしろい。というのはロドニーのレスリーへの愛を象徴する下の詩「可憐なる五月の蕾」は夏がテーマの詩だからだ。偶然なのか、それともこういったところもねらって使用しているのか。

Sonnet 18
Shall I compare thee to a summer’s day?
Thou art more lovely and more temperate:
Rough winds do shake the darling buds of May,
And summer’s lease hath all too short a date:
Sometime too hot the eye of heaven shines,
And often is his gold complexion dimmed;
And every fair from fair sometime declines,
By chance, or nature’s changing course untrimmed;
But thy eternal summer shall not fade,
Nor lose possession of that fair thou ow’st;
Nor shall Death brag thou wander’st in his shade,
When in eternal lines to time thou grow’st:
So long as men can breathe or eyes can see,
So long lives this, and this gives life to thee.

 君を夏の日にたとえようか? とはじまり、すぐに、君のほうが愛らしくて穏やかだ、と詠う。「心なき風、可憐なる五月の蕾を揺さぶりて 夏の日々はあまりにも短く」は三・四行目だ。九行目で、「汝がとこしえの夏はうつろわず」直訳すれば、君の永遠の夏は色褪せない、最終十四行目で、この詩がある限り君にはこの詩から命が与えられるのだ、と詠う。あきらかに詩としての強度が高い。ロドニーの心に秘めたるものを想像させる。なお、本文中で全文引用されている「実ある心の婚姻に」はソネット116番である。

 ジョーンは他人のことを分かっているつもりで実はちっとも理解しておらず、しかもそのことは家族全員に見透かされ、すっかり諦められていた。ジョーンは単純な自惚れ屋ではない。ロドニーもジョーンは有能であると認めている。能力がないのに勘違いしているということではない。ジョーンは他人の生き方に寛容さを示さない。彼女があるべきと思う人生でない人間は「悲惨な人生だった」と決めつけてしまう。この人に比べたらわたしはまだましだと思って、その人にはもう深入りしない。
 ジョーンのレスリーへの憐憫に、ロドニーは思う。レスリーはちっともみじめではない。一方でジョーンは思う。ロドニーがレスリーに恋をするなんてありえない。性的に魅力的なマーナ・ランドルフならまだわかる。男ってそういうものだから。でもレスリーはきれいじゃない。「勇気」? ありえない。女のもっている勇気にひかれるなんてありうるの? ありえない。そんなことあるわけない……。ジョーンは自分が見たいようにしか世界を見ていない。その証左の一つとして、周囲がナチスドイツと戦争になると言うのに対して、ジョーンはそんなわけないとけろりとしている。
 そんなジョーンも、ロシア人のコスモポリタン、サーシャには気おくれする。サーシャは貴族なので、むしろ突き抜けてしまってフランクなのだ。中流だからこそ体裁にこだわるもの。ジョーンは急に自分の小市民性に気づかされる。
 本作は作者アガサ・クリスティーの人間観察眼と、推理小説で培った技法がうまく融合し、結婚のある種のリアルを浮き彫りにした稀有な作品である。ジョーンの砂漠での体験は、キリスト教のコンヴァージョン(回心)をも連想させるものだが、ラストでイギリスに帰りその空気に触れた彼女は、もとの自分に戻ってしまう。皮肉ともいえるし、これがリアルとも評すべき終わり方だ。本気で中身のある人生にしたいなら、必ずどこかで勇気が必要ですよ。そう言われているような、複雑な余韻を残すのだった。