黒い家 [貴志祐介]

包丁 小説を読む

 読む前に、ホラーというジャンルわけや「黒い家」というタイトルから、始終惨殺事件が起こるような印象をもつ読者もいるかもしれないが、そういう昔のスプラッターではなく、本作は基本的に心理サスペンスが描かれている。
 オカルトに走らず、生命保険会社の保全業務から、起こりうる保険金殺人へと、現実と地続きの恐怖を描けているところを評価する声が多く、筆者もそこは同意見だ。
 作者の貴志祐介はホラーだけではなく、SFや推理小説、ゲームを題材・ヒントにした小説まで幅広く書いている。『黒い家』は作家が今後、ある程度好きに書いてもいいという切符を手に入れた初期作品だったといえるかもしれない。
 参考のため貴志祐介作品名をあげておく。『天使の囀り』『クリムゾンの迷宮』『青の炎』『新世界より』『悪の教典』『硝子のハンマー』『鍵のかかった部屋』など。
 『黒い家』もそうだが、各作品とも執筆にあたっての準備がしっかりしている。若干趣味の悪いところが露呈している気もするが、そこは好みだ。その筆力を迷わずエンターテイメントに傾け活かす作家の一人といえるだろう。

血液がすっかり流れ出してしまったために、日に灼けた顔は濡れた新聞紙のような色になっている。

 こういう表現は、実際に殺(や)った人間でないとでてこないのではないか、など妄想してみた。そういう筆者も趣味が悪いかもしれない。

 本作において、敵は拳銃ではなく包丁、男ではなくおばさんなので、主人公のような大の男ならなんとかなりそうではある。ただし包丁はハモ切り包丁で、山刀のよう。対峙すると目つぶし、金的、噛みつきで血だらけにされ、ハモ切り包丁での一撃をくらう。ここは作劇的には意外に大事で、一部読者は犯人をなめているので、しっかり書かないとグダグダになってしまう。女殺人犯の実行性に説得力がない作品はけっこう多い。毒殺以外の強行犯の場合、実行力を疑われてはつまらない。
 たくさんの挿話がでてくるので、あまり注目されないかもしれないが、終盤に主人公が蝉を殺してしまうシーンがある。なくてもよさそうなシーンだ。この例に限らず、本作には虫の挿話が頻繁に出てくる。心がない生物の象徴として虫が出てくると考えられる。ただ蝉の挿話だけ、殺す側と殺される側が入れ替わっている。相手が人間だと思っていなければ、普通の人も生き物を殺せる。蝉の挿話は殺人鬼の心理を想像させるためいれられたのではないか。
 もし相手を人間だと思う心の形成に失敗した場合どうなるのか……。人間の命は次元が違う、と感じる心理ハードルはもしかして、案外低いのではないか? 人が人を殺して何とも思わない事例はこれまでもあったし、今後もありつづけるだろう。本作の、そこまで想像させる鬼気が、読者に怖さとして伝播するのである。