春琴抄 [谷崎潤一郎]

三味線 小説を読む

 筆者が『春琴抄』で気になるのは、一部の読者があまりに嗜虐・被虐趣味の要素に目が行き過ぎているのではないかということだ。批評なり解説で、被虐・SM・マゾヒズムを主軸として持論を展開しているものにいまひとつ首肯できない。たしかにこの小説は淫靡な雰囲気も漂っているが、性的なそのものを描写しておらず、作者の筆は読者の想像力をたくましくさせるところでおさえられている。佐助は被虐趣味だが春琴は嗜虐ではないとか、逆に春琴には嗜虐の気があるが、佐助には従僕の献身しかないとか見方が様々あるのだが、筆者はいずれにしてもこの小説について、嗜虐・被虐趣味を強調して語る方法に反対である。この小説は谷崎潤一郎の筆が秀逸で、読者は、子は誰の子かとか、春琴を襲った犯人は誰かとか、そういうところにうまく迷い込んでしまう。嗜虐も、二人の関係性や情交に想像力と誘導を与えるものではあるが、物語の主軸ではないというのが筆者の考えである。というのは、この物語の要所となる、佐助が春琴のため自らの眼を潰す行為は性的なマゾヒズムとは離れているからだ。せめて春琴が佐助の眼を潰したならまだしも、そうではない。
 佐助が自ら眼を潰した理由は何か。それは様々に考えられるので、以下に列挙する。これらのどれが正解というより、すべてが少しずつ正解なのだろうと思う。

・美しい春琴を永遠に脳裏に焼きつけるため(主体佐助・ポジティブ)
・佐助自身が今後、醜い春琴を見ていられないから(主体佐助・ネガティブ)
・殉死に近い感覚として、傷心の春琴に殉じなければならないと考えたため(身分の劣る者が高貴な者に殉じる思想)
・春琴が人に見られたくないと思うであろう姿を、自分こそ絶対に見ないという覚悟のため(察するという文化・佐助の忖度)
・春琴が佐助の失明を望んでいると佐助には感じられるため(察するという文化・春琴の望み)
・春琴の心情と同化するため(同化願望)

 「察する」ということは春琴にとって、そしてこの小説にとって重要で、春琴は佐助が盲目となったことに、愛情からでもあろうが何より察してくれたという点から「よくも決心してくれました嬉しゅう思うぞえ」と感謝する。
 たとえ愛し合っている仲としても、私の心情がまるまる分かる境地に達していなければ真の愛情とは認めません、ともし宣言するなら、これはこれで過酷な要求だ。私はあなたではないしあなたは私ではないので、思いやることはできても、まるで同化したように心情のすべてがわかり合っておりますという状態には現実、なかなかならない。
 春琴と佐助は、常人ではありえない頻度と密度で幼いころからお互いを察しあってきた。そこに男女の恋情が混ざりこんだ時に、二つの身体と精神のどこかが繋がったようになってしまった。一体の境地に入りこんでしまった。つまり「察する」が高じて同化の願望となったととることも可能である。これを究極の愛と礼賛するかは人それぞれとしても、一つの愛のかたちと認めないわけにはいかない。
 作者谷崎にも、話がちと現実離れしていると分かっていたようで、書き様には工夫を凝らしたようである。語り手を用意し、物語を入れ子構造にして、話を又聞きしている状態にしたのもその一つだと思う。つまり現実離れしていることへのエクスキューズとしての入れ子構造である。ただこれだと消極的理由づけになるので、もっと積極的理由を見いだすならば、我々の現実にしっかり接続させるための工夫だろう。
 『春琴抄』に書かれている「察する」という行為・文化は、身分制度や徒弟制度があったからこそ重要だったといえる。家柄が違うというのは乗り越えがたい人間関係の壁であったこと。弟子というものは何をされても言われても「へい、へい」と額ずくのが当たり前であったこと(今であればパワーハラスメントで一発退場である)。こういった現代人には遠い感覚、現代人のいう思いやりとはステージの違う主従の関係があった。
 だからといってこの小説から、現代人に失われた相手を察する心の機微を学びました、というのも何か違う。読み方は自由だからそういう人がいてもいいが、作者の着眼点はそこにない。谷崎は現代人である。この感覚が遠いものであることは分かっていたはずだ。だから語り手を登場させて明示的に現代と接続させる手法をとった。
 主従という社会関係、盲目という身体感覚で描こうとしたのはあくまで男女の恋情、その深さと成り行きを書きたいという思いに集約される。

 そういう谷崎には、無思想だという評もつく。谷崎は自分の書きたいもの、書けるものに正直であった。思想も大事だが、谷崎のような仕事も大事なのは、人間にはどのような感覚・行動・想いがありうるのかを書き残しておかなければいずれ消え去ってしまうからだ。谷崎は『源氏物語』の現代語訳も手掛けたが、そこに平安貴族の心情が書き残されていることに作家として共感したのではないかと思う。世情や時局など気にも留めず、文学者として何をなすべきかということにぶれがなかった。
 書き残すという観点でいえば、鶯や雲雀のくだりは昔の小鳥道楽が伝わるところで、筆者の好きな場面だ。春琴の浪費を説明しているだけと思う人もいるかもしれないが、筆者は鶯が春琴のイメージと重ねられていると解釈する。それが証拠とは言わないが、春琴は作曲までしており「春鶯囀(しゅんのうでん)」が残っている。鶯の啼く声、楽器の音。のち長生きした佐助は、残された音に、春琴を感じるのである。あるいは同時に、芸に生きたおのれの人生をも思い出し重ねたかもしれない。そのような佐助が、春琴を美化して伝えていると思われるのは、まあ大目に見ようではないかと筆者は思うのだが、読者諸賢は首肯せらるるや否や。