ダ・ヴィンチ・コード [ダン・ブラウン]

最後の晩餐 小説を読む

 ベストセラーとなり映画化もされた本作。作者が冒頭で、小説の内容は事実に基づいていると述べていることから物議を醸した。登場する芸術作品が現実に存在するのは確かだが、その解釈まで真実か。文書や秘密儀式も事実だと書いているが本当か。シオン修道会なるものが捏造であることは確定している。一方で、実在の団体を陰謀団体のように記述しているが、それはいいのか。『ダ・ヴィンチ・コード』はフィクションとしてパンチをきかせた作品であるのは間違いない。
 聖杯伝説は西ヨーロッパに出現した伝説で、イギリス土着の英雄譚だったアーサー王伝説の物語群に入り込んで創作されたりした。聖杯(Holy Grail)を探すというのは探索ものの典型で、現代になっても映画『インディ・ジョーンズ』シリーズに登場するなどしていた。この聖杯の正体が、イエスの血脈であるという『ダ・ヴィンチ・コード』の結末は、オリジナルではなくタネ本があることが知られている。本作は、秘密や陰謀をあばくと称するオカルト界隈の言説をぎゅっと集めたような小説になっている。
 謎解きはわくわくする要素なのだが、学術書の解読とはやっぱり違う。有名な壁画『最後の晩餐』の使徒ヨハネをマグダラのマリアだという読み解きは、無茶過ぎると筆者は思った。でももちろん、楽しんだもの勝ちである。
 イエスの妻であったかは別として、マグダラのマリアはイエス亡き後のキリスト教で重要な役割を果たしていたことは間違いない。彼女はイエスの復活を最初に目撃した。あえて言葉を替えれば、イエスが甦ったとはじめに言い出した人物だった。残った弟子たちとともに教団の運営に中心的にコミットしていたと考えられている。キリスト教は長く男性原理だったため重視されていなかったが、近年の研究ではその役割の重要性が再注目されている。そんな機運の中で、フィクションにおける彼女の役回りは最大限高められるところまできている。

 筆者はこの小説に書かれていることの荒唐無稽をあばいて、けなしてやろうと思って書いているのではない。売れたということは、その時代をつかんだ何かがあるのだ。上記した、マグダラのマリアの位置づけを再考する雰囲気があることも一つだ。
 『ダ・ヴィンチ・コード』の成功は「この本の中ではきっと隠された真実があばかれるんだ」と巧みに読者に期待させたところに起因する。鏡文字などを残している万能の天才レオナルド・ダ・ヴィンチはなんらかの暗号を残していてもおかしくないと思わせる人物だ。題名として取る人選がストライクなのだ。名画に隠された秘密、というとっかかりも一般の人の知的好奇心を刺激する。図像解釈を用いた探索は、よくあるオカルト的読み解きと片付けられないように、学問的読み解きだとあくまで譲らない。そのためにもラングドン教授というキャラクターは欠かせない。読者の期待を高めるために「ここに書かれているのは事実だ」と冒頭で宣言した。謎が解かれ、壮大な物語が紐解かれてゆく快感がある。しかも最後にあばかれた事実は、欧米人の一部がどこかで、そうであってほしいと願う物語と一致しているように思える。現代ヨーロッパにキリストの威光が残存していてほしい。もっといえばエルサレムでも地中海世界でもなく西ヨーロッパに残存していてほしい。聖杯が西ヨーロッパにあることは、彼らにとってはとても素敵なお話なのだ。
 イエスの妻帯は、禁欲をどう考えるかということにとどまらない。これはイエスの人性と神性にもかかわりかねず、キリスト教信者には大問題だ。だがキリスト教信者が多くない日本人はたいてい、神学的論争に興味はない。従来のキリスト教が唱える価値観を転換してみせたことによる快感は薄いのではないかと想像する。ではキリスト教に馴染みのない日本でもブームとなったのはなぜか。それは上記したような小説としての巧みさもあろう。くわえて、本作がイエスの人性に光をあてたからではないかと思う。史的イエスにふれたような気になれたのが新鮮だったのではないだろうか。イエスという人がたしかにいたんだ。キリスト教徒ではない多くの日本人は、その感触がもてたことだけでも、十分満足だったのではないだろうか。