斜陽 [太宰治]

夕陽 小説を読む

 太宰治は『人間失格』が有名で、そちらもたしかによいのだが、筆者は『斜陽』のほうが小説としては好きだ。男を主人公にした太宰の小説は、作者自身が独白しているような文体で自嘲気味に書かれている印象が強い。女を主人公にした太宰の小説は、作者と主人公の適度な距離感が作品を軽快に、自由にしている。太宰が参考にした恋人の日記の存在が、これを可能にしたことはよく知られている。
 戦中から戦後にかけての太宰の時代、女性は社会的にはまだまだ自由とはいえなかった。しかし太宰は、男だって不自由なんだと言いたかった。男こそ「ねばならぬ」にとらわれている。だから太宰は、不自由と思われている女に、むしろ自由の可能性を託したのである。

 この小説は発表当時広く読まれ、「斜陽」という言葉は「没落」を意味するまでになり、「斜陽族」「斜陽産業」といった言葉も浸透した。
 母および弟の直治の滅びが書かれているのは瞭然としている。問題はかず子だ。本作はかず子の「革命」の評価によって感想が変わってくると考えられる。一つは上記したように、かず子のこれからに自由と希望を見る見方。もう一つは、かず子の生き方に可能性を見ながらも、現実のかず子のこれからを想像すれば、掛け声やよしだが結局男を頼みとすることになるだけなのでは(直治も遺書でそのことにふれている)という懸念をもつ見方。最後の一つは、かず子の最後のさまも没落であるという見方。つまりここには三者三様(上原も入れるなら四者か)の没落の様が描かれているということになる。
 最後の見方をとると、滅ぶにしても美しく、という生き方の美学をみることになろう。そういう取り方もまたよしと思う。
 かず子の革命とは何なのか。無意味なのか。作劇的にもこの部分は観念的で弱いという評がある。
 筆者が思うには、本当の革命とは我々の精神のありようが変わることだと、かず子は言いたがっている。そう考えれば、これは現代の、貴族でない我々にも通用しうる。
 かず子にとってのその「第一回戦」は恋の仕方の変革だった。そしてそれが、旧来の男(場合によっては女)から、そんなものが革命か! ばかにするな! と大真面目に反論されるかもしれないこともよくわかっていた。そのうえでかず子は、沈んだ砂金を拾いあげるように、上原との恋を拾いあげて生きていくことを決心したのだった。

私たちは、古い道徳とどこまでも争い、太陽のように生きるつもりです。

 斜陽の「陽」たる太陽は、この小説本文の中で没落を意味していない。あくまで輝くように生きてみせると、かず子は宣言している。世間の「斜陽」の使い方とは逆に、斜めに差す陽の光は、かず子のしたたかさを通してポジティブに表現されていると考えうるのである。