妊娠カレンダー [小川洋子]

グレープフルーツ 小説を読む

 本作の感想・論評は、主人公である妹の小さな悪意に焦点が行き過ぎているきらいがあって、登場人物の歪みが怖かった、不気味だったという印象で止まっているものが多いと感じる。
 「染色体」に害があるかもしれないグレープフルーツジャムを姉のために作る妹の行為は成り行きであって、妹はほとんど意図していない。妹は姉の妊娠という現象を憎んでいるか。憎んでいると取る事も可能で、だから姉の妊娠はもちろんその原因を持ち込んだ義兄にもよい印象を持っていないと説明することができる。ただ、憎いとはっきり表明はしていない、曖昧であるともいえる。妊娠という全人類が体験するわけではない事が題材であることもあって、漠とした印象のまま、悪意のグレープフルーツジャムだけ鮮烈に残る……という事態になりがちなのではないか。

 私見としてこの小説に書かれていることを考えると、それは「現実」もしくは「現実と呼ばれるもの」の実感のなさではないかと思う。想像していたもの、話には聞いていたものが自分かまわりの人間に起きてみると、意外とあっさりした感覚しかもちえず、これってこんなものだろうか、もっと違う感じ方をしないと「正しくない」のじゃないかと思うことがある。まして、身体性こそは現実感の最後の拠り所のはずなのに、姉の妊娠という身体に起きたことを観察する妹はそれをリアルに感じられずにいる。妹は姉もそうなのではないかと感覚を共有している。小説の語り手は妹なので姉の実感は分からないが、妹のほうは姉に同化していると同時にこんなのちっともリアルじゃないと感じているのだ。妹はそれよりも昔の病院のようすをリアルな感覚で思い出している。
 この感受性そのものはけして特殊なものではなくて、誰しもがもつものではないか。おそらくは特に若い時に持ちやすい感覚ではないかと思う。現代では情報や聞いた話のほうが先にきてしまうのもこれを助長していると感じる。本作はこの現実感のなさという「感覚」をうまく取り出している。
 文庫版に収録されている『ドミトリイ』と『夕暮れの給食室と雨のプール』も同じテーマで貫かれている。
 わたしのあずかり知らないところで何かが進行している。進行する「現実なるもの」と「わたしの感じ方」が一致してくれない。もし一致してくれればわたしはとても安心できるのに、そのずれはわたしを(つまり読者を)不安にさせる。これが読者の感じる不気味さの正体ではないか。そしてこの不安や不気味さは「現実なるもの」と「わたしの感じ方」のずれの結果であって、不気味さそのものが小説のテーマであったとは思えないのだ。だから、不気味でした、で止まってしまうのはとてももったいない作品ではないかと思う。
 ところで姉の赤ん坊は破壊されたか。おそらく妹なんて関係ないかのように、現実は勝手に進行していることだろう。