神曲 [ダンテ・アリギエーリ] 其の一

ダンテ 書の理解を深める

 ここではサイトカテゴリー「小説を読む」のような作品の読み方・味わい方というより、内容解説といったほうがよい文章を書く。引用されたり、諸作品創作の念頭にあることの多い書物について知っておくと、作品が読みやすかったり分かりやすかったりする。その最たるものは聖書だろうが、ここではダンテ『神曲』を取り上げることで派生的に様々な情報を取り込めることを示そうと思う。また一種の教養としても、もっていてよいものかもしれない。

『神曲』の内容は自由な想像である

 『神曲』は14世紀に書かれた長編の詩である。今ではイタリア文学のみならず世界文学史上最重要書物の一つとされるくらいに評価は高まり確定している。しかし実は、『神曲』は19世紀より前には評価されていなかった。一般によく読まれていたが、知識階層に最高の文学と迎えられていたとはいえない。その最大の原因はラテン語で書かれていなかったからだ。この作品はダンテの地元トスカーナの方言で書かれており、それは上級の教養を持つ人々にとって洗練されていないと評価される要素だった。内容に対しても、ロマン主義以降から現代では作者の想像力の豊かさを褒め称えるだろうが、書かれた当時から自由な(勝手な)想像をめぐらしたキリスト教に関係あるのかないのか分からない内容への誹謗があった。
 ダンテの地獄・煉獄・天国の描写はたいへん興味深いものだ。だがこの描写が地獄・煉獄・天国の公認決定版というわけではない。多くはあくまで詩人ダンテの想像の産物である。また地獄・煉獄の構造や様子などの描写に目がいきやすいが、そこで裁かれている人々を見ると面白い。そこにはかなりダンテの恣意的裁断がはいっている。こいつはこんな目にあうべきというダンテ独自の正義感にもとづいて、教皇であろうが偉い政治家だろうが地獄行きである。
 のちにも触れるが、地獄の最下層では魔王ルシファー(ルシフェル、ルチフェロ)が罪人を食っている。その罪人はイエス・キリストを裏切ったユダと、カエサル(シーザー)を暗殺したブルータスおよびカッシウス(カシウス)である。キリスト教徒の立場からすればユダはわかる。だが並み居る罪人を退けてブルータスとカッシウスとは、カエサルを暗殺するのはイエスを裏切るのと同等の(あるいは罪人二人分だからそれ以上の?)罪だったというのか……。ダンテの傾向として、欺く者、裏切り者は最も罪が重いと考えている。そこにはダンテの実生活における政敵への私怨もあったのではないか。もしかしたらそれも『神曲』創作のモチベーションだったのではと思わせる。
 ダンテは詩を愛し、若くして『新生』という詩作をしている。同時に彼は政治的野心も持ち合わせており、フィレンツェのプリオーレ(統領)も経験している。政治家人生のなかでダンテは俗世間の権力・権益争いをいやというほど見た、というより真っただ中でそれを経験した。教会や教皇すら俗世のプレイヤーとして動いていた。最終的にダンテは政争に敗れて追放され、放浪したのちラヴェンナに落ち着きそこで死んだ。そんな後半生に費やされた詩作が『神曲』なのである。荘厳な物語詩としてかしこまって読むもよしだが、ユーモラスなところも散見される本作を楽しむ気持ちで、好きなところを飛ばし読みするつもりで(なにしろ長いので)読んでもバチはちっともあたらないと筆者は思う。

Divina Commedia

 『神曲』の原題は『Commedia』で「喜劇」という意味である。のちに「神の」という意味のdivinaがついて『Divina Commedia』(ディヴィナ・コメディア)となった。さらにのち頭にLaがついたりしている。これは結末が喜びで終わるから喜劇という題名なのだと言われている。西洋ではしっかりした注釈書が書かれ、作中のこれは何々の象徴、あれはこれこれの隠喩(メタファー)と解説がされていて、とりつく島がないくらい綺麗に磨かれている。現代的な読み手の自由を振りかざすと真面目な人に怒られてしまうかもしれないが、筆者は本作を、中世キリスト教文学の大成として神学的に位置づけることをすべての読者が実践しなくてよいと思っている。
 『Divina Commedia』を『神曲』と訳したのは森鴎外である。ただし鴎外は『神曲』そのものを訳出したわけではない。アンデルセンの『即興詩人』という小説を訳した際、そのなかで『Divina Commedia』にふれている箇所があり「神曲」と名付けた。アンデルセンは童話作家として有名なあのアンデルセンだ。『即興詩人』はデンマーク人であるアンデルセンがイタリアを舞台として書いたロマンチックな小説で、鴎外訳によって当時の日本に熱狂的ファンを生んだ。この中の主人公アントニオは『神曲』にロマンチシズムを見ている。宗教的荘厳や神の愛にひかれているとはあまり思えない。作者アンデルセン自身がおそらくそうであったように、ロマンチックなイリュージョンたる素敵なイタリアを夢見る、その文脈のなかで『神曲』は敬慕すべき対象として登場するのである。

地獄篇 Inferno(インフェルノ)

Nel mezzo del cammin di nostra vita
mi ritrovai per una selva oscura
che la diritta via era smarrita.

人生の半ばにして
ふと気づいてみると私は暗い森の中で
正しい道を見失っていた

 これが最初の詩だ。一行目と三行目の末尾で韻を踏んでいる。二行目の韻を次の詩一行目と三行目の韻にもち越し、以下その規則が繰り返される。地獄篇三十三曲、煉獄篇三十三曲、天国篇三十三曲と綺麗に三でまとまった構造をしている。地獄篇は実際は三十四曲あるが、最初のものは序曲と考える。序曲とあわせてすべてで百曲。この考えられた構成も評価を高めている。ダンテは自らの詩作を含めた新しい詩をDolce Stil Novo(ドルチェ・スティル・ノーヴォ)、甘くて新しい詩の形だとした。清新体と訳されている。これを含めた文学運動はトスカーナ方言の地位向上のみならず、現代イタリア語の形成にも寄与したといわれている。
 第一曲の内容は、主人公(あとの詩からこれはダンテ自身であると確定する)が森で道に迷っているという状況の説明と同時に、主人公が人生の迷走を感じ始めていることの告白ととれる。キリスト教の立場からは、私は神に至る道から逸れてしまっていた、と解釈することも可能だ。

 人生の半ばを、本当に人生の年数の半分の時と考えると、これは三十五歳の時と考えるのが定説だ。キリスト教圏では人生の長さは七十年と考えられていた。「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年」と聖書(詩篇90)にもある。日本では『敦盛』(織田信長の舞が有名)の一節「人間五十年」が膾炙している。これと同じで、科学的統計ではなく一般感覚として、人生の長さを考えるならば七十年だったということだ。さらに、この年はA.D.1300年であったと研究されている。というのは、のちの煉獄篇で「ここ三か月間は誰でも煉獄に入れる」と表現されているからだ。当時の教皇によって、1300年は聖年であるから、多くの者が救われる大赦の年と決められた。ダンテはそれを表現していると考えられる。なお、煉獄は地獄ではないので、救いがないわけではない。その説明はのちの煉獄篇で。A.D.1300年で三十五歳ということは、逆算してダンテの生年は1265年となる。ダンテの几帳面さが反映されたその詩は、こういった推定も可能にする。

ウェルギリウスの登場 ベアトリーチェの存在

 森で迷うダンテの前に、詩人ウェルギリウス(ヴィルジリオ)が現れる。ウェルギリウスは、ダンテの憧れの女性であったベアトリーチェに頼まれ、ダンテを導くため現れたのだった。
 ベアトリーチェは現実世界のダンテが生涯忘れられない女性だった。ダンテとはすれ違ったり挨拶しただけの関係で、別の人に嫁いで二十四歳で亡くなってしまった。ダンテにとって本当に永遠の女性であった。前に紹介した『新生』という詩作もベアトリーチェに捧げられた内容だ。

 ウェルギリウスは紀元前一世紀のローマの詩人で、ここでひくべき代表作は『アエネーイス』だろう。『アエネーイス』は「アエネーアースにちなむ」の意味。つまり「アエネーアースの物語」ということだ。トロイアの英雄アエネーアース(アイネイアース)がカルタゴに逃げ、さらにイタリアに渡ってローマ建国に貢献したのだという、いわば作られた神話を創出したものである。主人公が流離の中であるべき場所を探し求める筋書は、ダンテに影響を与えたものと思われる。アエネーアースは旅の途中、父をはじめとした死に別れた人達に会うため、冥土へ旅をする。そこでやがて建てるべき国(ローマ)の王となる運命を告示される。このような箇所は『神曲』に類似するし、全体としても流離>使命の確信>帰郷(建国)という英雄譚の典型は『神曲』作成にあたってダンテの念頭におかれていたと思われる。詩人としての尊敬のみならず、それがウェルギリウスの登場した理由と考えられる。

ホメーロス『オデュッセイア』という古典

 さらに話をひろげると、『アエネーイス』を理解しようとすればホメーロス(ホメロス)の『イーリアス』(イリアス)および『オデュッセイア』を知っておかなければならない。またギリシャ神話そのものについて理解しておくのがよいだろう。これらを読んでからでないと、と意気込むとたいへんな読書の旅をして『神曲』にもどってくることになる。そこは読者の自由だ。作者のダンテにするとこういった作品には造詣が深かった。聖書だけではなく、ダンテはたいへん博学なのだ。
 『イーリアス』はギリシャ連合がトロイア(トロヤ、トロイ)を攻撃した、トロイア戦争を語った叙事詩だ。ギリシャの神と人が混然と登場する『イーリアス』は、かつては完全な創作と考えられていたが、19世紀にシュリーマンによってトロイアの遺跡が発掘され、事実を含んだものと現在では考えられている。
 『オデュッセイア』はトロイア戦争の後、英雄オデュッセウスが故郷に帰ろうとして苦難の旅を経験する冒険譚である。英語表記Odyssey(オデッセイ、発音オディシー)は冒険の旅や長期の放浪を意味して一般的に使われる単語だ。例えば『2001: A Space Odyssey』(2001年宇宙の旅)(アーサー・C・クラークとスタンリー・キューブリックの共作といっていい小説および映画)にも使用されている。さらにひろげると、オデュッセウスのラテン語名を経た英語名がUlysses(ユリシーズ)で、ジェイムズ・ジョイスの小説の題名にとられている。『オデュッセイア』は内容から気づいたと思うが『アエネーイス』に影響を与え、それは『神曲』へ、さらに現代の創作物にまで影響を与え続けているのである。

 長くなっているのでここでいったん切る。まだ地獄に入っていないのだが……読んでいただいたら分かる通り、周辺情報・前提知識が多いのだ。次回は地獄巡りしたい。

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