神曲 [ダンテ・アリギエーリ] 其の二

ダンテ 書の理解を深める

 ダンテは気がつくと暗い森にいて、道に迷う。そこに尊敬する古代ローマの詩人ウェルギリウスが現れて、ともにあの世巡りをすることになる。今回は地獄を巡る旅である。
 『神曲』は読み進めるのにどうしても注釈が必要だ。それは読者の読解力の問題ではない。現代の読者が知らなくて当然の、トスカーナの名士や架空の人物が次々出てくる。ここでは地獄の構造と罪人達の罪の記述を中心にして、地獄の底までくだる。

地獄には希望がない

PER ME SI VA NE LA CITTA DOLENTE,
PER ME SI VA NE L’ETTERNO DOLORE,
PER ME SI VA TRA LA PERDUTA GENTE.

GIUSTIZIA MOSSE IL MIO ALTO FATTORE;
FECEMI LA DIVINA PODESTATE,
LA SOMMA SAPIENZA E’L PRIMO AMORE.

DINANZI A ME NON FUOR COSE CREATE
SE NON ETTERNE, E IO ETTERNA DURO.
LASCIATE OGNE SPERANZA, VOI CH’INTRATE.

嘆きの町に行く者は我をくぐれ
永劫の呵責を受ける者は我をくぐれ
滅びの民に会う者は我をくぐれ
正義は高き創造主を動かし
神の権威、最高の知恵、原初の愛が我を造った
永遠であるものを除けば、我に先立って造られたものはない
我は永遠にあり続ける
ここに入る者、いっさいの望みを捨てよ

 『神曲』のなかでもっとも有名な一節がこの地獄の門に刻まれている碑銘だろう。地獄が責め苦を受ける場所で、嘆きと苦悩に満ちているという想像は万人にできるが、地獄は希望(SPERANZA)がない場所なんだと喝破したのがダンテである。
 近現代になると、オーギュスト・ロダンが地獄の門の彫刻作品を完成させた。この作品の上部についていた男の像を単体として制作したのが、有名な『考える人』である。ここから分かるようにロダンの『考える人』は何を考えているのかといえば、地獄とその苦しみについて考えているのだ。

辺獄 limbo(リンボ)

 ダンテはウェルギリウスとともに地獄に入る。入口付近には神の敵にさえ気に入られなかった日和見主義者、人生を本当に生き切らなかった馬鹿者がいて、永遠の無為を過ごす。次にアケロンテ(アケローン)の河がある。日本でいう三途の川だ。あの世とは河で隔てられているという表象は人類共通にみられるようだ。渡し守カロンの舟で対岸に渡る。対岸は地獄といってもまだ浅く、limbo(リンボ)と呼ばれる。辺獄と訳されている。ここには悪人ではないがキリストを知らなかった者が落とされている。
 イエス・キリストが生まれたのがA.D.1年かB.C.4年、その他の説もあるがそのへんとすると十字架に架けられたのが三十三歳か三十四歳なのでA.D.30年頃に伝道と磔刑(全人類の贖罪)があった。これより以前に生まれ死んだ人間はキリストを知らないので救いはない。ウェルギリウスはもとは辺獄にいたし、前回ふれた古代ギリシャの吟遊詩人ホメーロスもここにいる。そのほか古代ギリシャの哲学者などがいる。責め苦は受けていないが、善良な人でもキリストを知らない者は地獄行きというのが容赦ない。

九圏にわかれる地獄の構造

 『神曲』の地獄は漏斗状になっていて、下へいくほど狭い。深さによって区切られた階層が九つある。これをチェルキオ(圏、圏谷)と呼ぶ。さきほどの辺獄が第一圏。一つ下の階層が第二圏だ。
 第二圏には邪淫の罪を犯した者が常に風に吹き飛ばされている。例えばクレオパトラはここに落とされている。ダンテはここで見たパオロとフランチェスカに同情する。パオロとフランチェスカは不貞を働いたことで地獄に落ちたが、不遇な結婚と男女の恋情には理解できるところもあると思ったのだろう。
 二人の物語はこうだ。政略結婚ではあったが、フランチェスカはパオロと結婚するものと思っていた。しかし実際にはパオロの兄との結婚で、その兄は粗野で不具者だった。フランチェスカは騙されたと思ったが時すでに遅い。パオロへの恋情は増すばかりで、そのうち一線を越える。しかし従者の告げ口により兄に関係がばれ、二人とも兄に殺されてしまった。

 このあたりは邪悪な罪とはいえず、放縦、好き勝手に生きた報いを受ける地獄だ。
 第三圏は貪食の罪を犯した者が冷たい雨に打たれている。
 降り口にプルートンがいて”Pape Satan, Pape Satan aleppe!”「パペ サタン、パペ サタン アレッペ!」と唱える。意味は不明。プルートンはプルートー(ハーデス)と同一だ。ここでプルートンは怒っている(威嚇している)、驚いている(うろたえている)など様々に解釈されている。
 第四圏は蓄財(吝嗇)と浪費の罪を犯した者たちが重荷を動かして「なぜ費やす」「なぜ貯める」と互いを罵りあっている。
 第五圏は憤怒の罪を犯した者が泥沼にはまりながら戦っている。

異端と暴力の罪

 第六圏は城塞都市ディーテだ。城壁に囲まれていて、ここからが地獄の中の地獄ということになる。ここには異端者、キリスト教の教義から逸脱した者が落とされ、業火に焼かれている。
 エピクロスおよびエピキュリアンがここにいるのが特徴的だ。エピクロス及びその学派は、キリスト教が思想上すなわち人間はどのような精神をもつべきかという思索上で力を持つ中世を経ると、曲解も含めて危険思想家とみなされた。エピクロスの言う「快楽」への誤解もあったが、根本的にいってエピクロスは今でいう唯物論者であり(原子論で有名なデモクリトスの影響を受けている)、キリスト教とは相容れない。死後の世界など考えても無意味と断じる思想は、死後の救いを信じる者には受け入れられない。

 第七圏ははじめに、他人へ暴力をふるった者、殺人者が煮えた血の川に漬けられている。アレクサンドロス大王がここにいる。ダンテの評価ではアレクサンドロス大王は英雄ではなく、殺戮者ということのようだ。
 次に、自分に暴力をふるった者、すなわち自殺者が、曲がりくねって棘のある木に姿を変えられ、凶鳥に体をついばまれている。自殺者の森に来ると悲痛な声が聞こえ、どこからの声だろうと何も知らないダンテが立ち止まる。するとウェルギリウスがそのへんの枝を一本折ってみろと言う。ダンテがそのようにすると、木がうめく。「なぜ私を折るのか」幹の、枝がもがれた痕から言葉と血が噴き出す。ダンテは怯え立ちすくんだ。またここでは放蕩者も自分の財産に暴力をふるったということで、犬に追い回され咬まれている。
 第七圏の最後に、神の自然性に暴力をふるった者へ罰がくだる。砂漠で男色者(ソッドマ、ソドミー)に火の雨がふる。高利貸しもここにいる。古来、キリスト教では人に金を貸して利子を取ることは罪だった。イスラム教では現在でも利子を取ることは罪業だとされている。イスラム教徒はイスラム金融という特殊な金融(投資をすることで金銭融通に替える)で資本主義社会に適応している。金貸しのヨーロッパ社会における抜け穴がユダヤ教徒すなわちユダヤ人で、彼らの中には同胞ではないキリスト教徒に罪悪感なく金貸しをする者がおり、キリスト教徒から嫌悪されていた。ユダヤ人への守銭奴というイメージ、悪感情は実に二十世紀まで続き、理不尽な悲劇まで生んでしまった。十四世紀イタリアではすでに商業が重要な活動になっており、金融と利子をどう考えるかという試行錯誤が始まっていた。ダンテは金貸し一般ではなく高利貸しをこの地獄の深層に落としている。この微妙な判断が、動いてきた時代の価値観を反映しているように思う。

悪の溜まり場

 第八圏はマレボルジェ(悪の袋、悪の溜まり場)と呼ばれ、十の濠にわかれあらゆる悪事が裁かれている。
 女衒(ぜげん)・強姦魔が悪鬼から鞭打たれる。阿諛追従の者(媚び諂う者)が糞尿の海に漬けられる。
 第三濠では聖職売買・聖物売買した者が、穴に頭から入れられ焼かれる。この聖職売買の罪人として、時の教皇らが落とされている。特に教皇ボニファティウス八世は、ダンテが最大級に糾弾したい人物の一人だったろうと考えられる。彼は枢機卿時代に、前教皇を追いやる策謀をしたと言われている。教皇になると、その権威が絶対であることをヨーロッパ世界に再確認させようとした。フィレンツェの政治にも介入し、邪魔なダンテは政界から追放された。ダンテは悪徳教皇達に「おまえらの貪(むさぼ)りが禍(わざわい)して、善人が沈み悪人が浮かぶ時世となった」と烈しい言葉をぶつける。
 次の濠では、魔術妖術、人の未来を占うなどした者が首を反対向きにねじ曲げられ背中に涙を流す。
 次は第五濠、汚職収賄をした者がマレブランケ(悪の爪)と呼ばれる悪鬼達によって煮えたぎる瀝青(アスファルト、チャン)に漬けられる。十二の悪鬼であるマレブランケは罪人が浮かんでこないように、鉤棒で罪人を瀝青の底に押し込む。ここはマレブランケのユーモラスさが特徴だ。悪鬼スカルミリオーネがダンテの尻を撫でると言うが、隊長のマラコーダにとめられる。悪鬼達に道案内させることになり、ほかの悪鬼達も出現。アリキーノ、カルカブリーナ、カニャッツォ、バルバリッチャ、リビコッコ、ドラギニャッツォ、チリアット、グラフィアカーネ、ファルファレッロ、ルビカンテだ。悪鬼達は整列し、隊長マラコーダに向かって舌を出してべえをする。するとマラコーダは放屁して応える。人間でいえば敬礼とその応答にあたるのか。案内途中で捕らえた亡者に逃げられ、悪鬼達は喧嘩を始める。うちの二匹アリキーノとカルカブリーナが瀝青に落ちて死ぬ。途方にくれた悪鬼達を後にダンテとウェルギリウスが立ち去ると、二人は怒り狂った悪鬼達に追いかけられる。追撃を振り切ったのち、罪人に次の濠への道を聞くと、悪鬼の道案内は嘘だったことが判明。悪鬼の邪悪さというより、ドタバタぶりが面白い。
 次の濠は、偽善者が外面だけ美しい重い鉛の外套に身を包み、ひたすら歩く。イエスを死刑に導いたユダヤの司祭がいる。
 第七濠、窃盗をはたらいた者が蛇に噛まれて燃え上がり灰となる。罪人は灰から再びもとの姿にかえり、また蛇に咬まれ灰になる。
 第八濠、権謀術数を弄した者が火焔に包まれる。そこにオデュッセウス(ウリッセ)がいる。前回紹介した『オデュッセイア』の主人公だ。有名なトロイの木馬はオデュッセウスの策。英雄として描かれているオデュッセウスがこんな深い地獄にいるのは腑に落ちない。ダンテからすると騙しを使ったのは罪が重いということか。なお、ここで語られるオデュッセウスの旅路はホメーロスのものと異なり、ダンテの創作となっている。
 第九濠、分裂分派を引き起こした者が体を裂き切られ内臓を露出する。首のない男が自分の頭を提灯のように手に提げて歩く。ここにはイスラム教の開祖ムハンマド(マホメット)がいる。アブラハムの宗教に分派をつくった罪ということか。
 第十濠、偽造、錬金術に関わった者が悪疫にかかって苦しむ。錬金術は現在の化学にも通じる部分もあったと一定の評価を今はされている。当時はろくでもない詐欺師まがいの錬金術師もいっぱいいたのだろう。

地球の中心に達する

 底まで辿り着いた。第九圏はコキュートス(コチート)と呼ばれ、ダンテの考える最大の罪、裏切りが裁かれる。永遠の極寒が続くこの氷結地獄は四つに分かれている。
 カイーナに親族への裏切り者がいる。名前は聖書でアベルを殺したカインに由来する。
 アンテノーラに祖国への裏切り者がいる。名前はトロイアを裏切ったアンテノルに由来する。ここまでの流れを考えると、ダンテはトロイアに同情しているようである。
 トロメアに客人への裏切り者がいる。名前は聖書外典に登場する裏切り者トロメオに由来する。底から二番目の地獄が客人への裏切りだとするダンテの判断には、自ら食客として放浪することになった体験が反映されている。
 ジュデッカに恩人への裏切り者がいる。名前はイスカリオテのユダに由来する。前回もふれたが、この地獄の最下層には神を裏切った最大の裏切り者であるルシファー(ルシフェル、ルチフェロ)が閉じ込められ、ユダとブルータスとカッシウス(カシウス)を食っている。ここが地球の中心で、ここから重力が反転する。
 ダンテとウェルギリウスはルチフェロの体をつたって反対側に出ると、狭い隠し通路から地上にあがった。そこはエルサレムの対蹠点(地球の真裏)で、階層をもつ山がそびえていた。この山が『神曲』における煉獄である。

煉獄篇 Purgatorio(プルガトーリオ)

 煉獄はカトリックに独特の観念で、キリスト教でもほかの宗派にはない。したがって現在でもカトリック以外の人間にとって煉獄というものは存在しない。十二世紀末までpurgatorio/ purgatorium/ purgatoryという語じたいが存在しなかったことがわかっている。十四世紀時点では新造されたばかりの煉獄という観念に、具体的表象を与えたのがダンテなのである。
 煉獄は浄化、浄火、浄罪とも訳されることがあるように、死後に罪を焼き尽くし天国に至る道を歩む苦行の場である。地獄は、地獄の門の碑銘にあったように永遠の存在であり、そこに落ちた者に救いはなく、永劫の呵責が待っている。しかし煉獄行きとなった者には救われる可能性も残されているのである。自浄とともに、煉獄にある魂が浄められるように祈る地上の人々の存在も大きいとされる。死者に祈る行為が意味づけられているという側面もあるのだ。

七つの罪

 燃える剣を持った天使が降りてきて、ダンテにPという文字を七つ刻む。七つのPは七つの罪を表しており、煉獄はそれに対応して七つの段に分かれている。傲慢・高慢、嫉妬・羨望、憤怒、怠惰、貪欲・強欲、大食、淫蕩だ。この七つは先にきた順番に罪深いとされている。「七つの大罪」とされることもあるが、大罪なら地獄に行くべきなので、正確には罪を生む心のあり方を示唆していると考えたほうがいいだろう。
 煉獄第一段は傲慢で始まり、そこでの罪を浄火したら上の段に進んでまた魂を清める。ダンテは自分自身を、死後、煉獄第一段に来るだろうと書いている。傲慢な自分をわかっていたということか。

 今回はここまで。ダンテが地獄を巡った時間は丸一日くらい。立ち止まったり話を聞いたりしていることを考えると、巡る速度はかなり速い。冒頭の暗い森から最後の天国を抜けるまで、一週間ほどの時間を要しているとされている。
 これからダンテは浄罪の道を辿ったのち、天国へ飛翔する。

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