世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド [村上春樹]

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 好き嫌いの問題になるが、本作の美点は「しつこい」ところであると筆者は思っている。谷崎賞選評やその後の英訳関係者の発言で、本作は長いところに難あり、というものがあった。その意見も分かる。本作は、その物が何で、どこにあって、どう扱われ、どのような状態なのかをやたらと描写している。全体をすっきり刈り込むこともできたはずだが、作者の筆はしつこい。本作はハードボイルド風不思議の国(ワンダーランド)とファンタジー・幻想世界(世界の終り)の同時進行という構成だ。このうちのハードボイルドを本作においてどう考えるべきか。というのは、小説全体はやはり一種の幻想小説といえるので、「ハードボイルド」が浮いている。主人公「私」のタフさとか、乾いた文体とかが、アメリカの作家のように本作を特徴づけているとはあまり思えない。主人公私は起こった事に「やれやれ」とは言うが、タフというよりむしろ悟りをひらいた人物のようだ。本作においてハードボイルド小説から抽出されたのは、主人公私の物に対するこだわりや独特の視線ではないか。物に対するこだわりによって主人公を表す。それがハードボイルドなのだ。

 筆者は二つの話「ハードボイルド・ワンダーランド」と「世界の終り」はほぼ同時進行しているととる。通常の解釈だろうと思う。理由は、そのほうが面白いからである。二つの話は、どちらかが時系列的に先行している話であるという論もあり、それも面白いとは思うのだが、そうすると読者に二話同時に読む読書体験をさせる意味が薄れてしまう。二つの話は最初は無関係のようにみえるが、だんだんとリンクしているのが分かるような作りになっており、特に後半ははっきりとした対応がみられる。内面と外界のクロスリンクとして読むと面白い。
 二つの世界が時系列的に前後していたり、円環をなしているととる場合、クロスリンクしているようにみえるところは何なのだといえば、「思い出しているのだ」と解釈する。このへんはいろいろな試論が可能だろう。

 「世界の終り」とは何か。それは「私」である。違う自分になりたい、違う人生を歩みたいと望んで考えたり行動したりしても、結局いつも私は私に戻ってきてしまう。世界とは私なのだ。このように考えている人を他人が見ると、身勝手な自己完結をしている人と思うかもしれない。しかし世界は私という見方はある意味で正しい。私が死んでしまえば、私にとって世界はないのと同じである。この普遍的命題を本作では、私が私でない何者かに移行してしまう、という奇妙なロジックで表現している。

 本作で懸案とされたのは、ラストで主人公の「僕」が「世界の終り」からの脱出を拒むところではなかったか。これはつまり、自己世界、虚構、幻想、非現実の肯定、創作世界回帰への肯定であると論じられた。その論点は筆者も反対しない。
 読者が、主人公僕は「世界の終り」に留まってはいけなかったのでは? と感じるのはもっともな感想だと思う。通常の作劇においては、ラストは何かから脱出して終わる、というのが定石なので、ちょっと意表を突かれるということもある。
 村上春樹のあずかり知らないことではあろうが、村上春樹作品、ことにこの『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』が後代の若者の一部に影響を与えたことは見逃せない。内面の問題を捨てて外界へ! というそれまでの作劇の常識から、そういう筋書きをもたないからといって不健全と言われることはないのじゃないかという感覚への変化。サブカルチャー、オタクカルチャーのなかにじわりとこうした感性は入り込んでいる。
 ただし、前述したように、本作で言っている「世界」は本当の世界ではなく「私」のことだと繰り返す必要がある。というのはオタク文化の「世界」は主人公の本当の外界であることが多いからだ。これはもちろん、漫画的世界では本当に世界の危機がこないと話がつまらないというのが大きな理由なので、そこに「世界と私(達)の直連結」という深刻な問題を常に見なければいけないということにはならない。作品による。理由はさておき、本当の外界と、「本当は私」というのは異なる。なので、村上春樹作品とサブカルチャーは点線で結ばれるが、太線で結ばれるとまではいえないと筆者は考える。
 「私」を主題とするという意味では、本作も基本的に日本近代文学の範疇にあると考えられる。ただ、日本文学の基本線というのは「私はリアルとどうつながっているのだろう」ということを色々な切り口で見せているもの、というのが筆者の一つの理解で、そのような線からすると本作はズレている。「君がリアルって言っているソレ、君の頭だよ」というのだからちゃぶ台を返しているようなところがある。そしておそらく、時代の要請として、従来のリアリズムからズレた文学は待望されていたのではないか。だから村上春樹はよく読まれた。同時に、こんなの無意味なファンタジーを意味ありげに書いただけ、とバッサリやる評者も当然いるわけである。
 主人公僕の選択は正しいと論じるのはけっこうな準備が必要で、まずハードボイルド・ワンダーランドの主人公私の生き方を否定的に捉える。そして世界の終りの影の言動や説得を否定か、それができなくても無化してやらなければいけない。読みは自由だからそれでもいいのだが、テクストに戻ると、主人公私は、世界に背を向けていたわけではなく世界が好きだったし、離れるのは嫌だと明言している。

「僕は世の中に存在する数多くのものを嫌い、そちらの方でも僕を嫌っているみたいだけど、中には気に入っているものもあるし、気に入っているものはとても気に入っているんです。(略)どこにも行きたくない。不死もいりません。」

 主人公僕の最後の選択を自己回復だとまで言う論が出ているのは注目で、そのような捉え方自体が文学をめぐる現象の一つだと見えなくもない。影や主人公私の典型的正しさを否定か無化して、主人公僕の自己回復や世界再編の物語だとまでいうことには、筆者は躊躇する。主人公僕の結論は実のところ博士の論理だ。博士は主人公私の脳を改造し、この物語が成立する要因を作った。そして「世界の終り」を肯定的にとらえている、主人公僕以外の唯一の人間だ。ピンクの服の太った孫娘も博士を非難している。主人公僕と博士以外は誰も理解できない世界に行ってしまうわけだ。
 関連して問題なのが、僕の影が外の世界に出て行くとはどういう状態をさしているのか具体的には不明な点だ。いやそもそも、影は助かったのか? もしかして僕によって影はやっかいばらいされたのではないか、と考えることだってできる。影は永遠に闇のトンネルの中を流れ続けている、というのは怖い想像だ。影は助かったと仮定して、ありうる解釈は、影は私の元の心なので、主人公私の復活の可能性を示唆するということ。ただし、影は主人公僕と一緒に脱出することにこだわっていたことを思い出すと、そこになんらかの重要性があったはずだ。これが最後で果たせなかったということは、主人公私はやはり別の私に移行してしまうから、元の私にとっては死んだのと同じとなってしまう。
 このような「私」の錯綜はいったいなんなのか。これはつまり、私のすべてを統御しているのは、私が意識と呼ぶものだけではないということではないか。私の中で、私が意識しないわたしが総動員されているらしい、ということを理論的に理解するのではなく、感覚的に実感することは、本作の一つの主題だったと考えられないか。下品な例と思われるかもしれないが、主人公が勃起するしないの描写は、心、体、意識、無意識のちぐはぐさを表現したのではないか。
 筆者の見解では、主人公僕の自己回復までは小説全体としては言っていない、言えていない。というか、それは博士の主張であって、それが小説全体の主張なのか、判断は読者に任されている。本作は、外界なんてどうでもいいとまで言っていない、言えていない。その問題にいく前に、私は私の心と体のままならなさというところでつまづいてしまう。冒険活劇としては、主人公私は外界と対決しなければならない。記号士と、やみくろと、もしかしたら組織と、選択によっては博士と対決しなければならない。しかし実際には主人公私は早々に諦めてしまう。この小説の主眼は最初から対決にはない。ハードボイルドといえば何かしらの対決に魅力があるのだが、最初からそこではないのだ。主人公私は自分のスタイルを崩さずに生きたい。それが外から内から壊される。これは堪えがたい。外からならまだわかるが、まさか内から壊されるとは思わなかった。私の中の私は私じゃない……。

 心とは何か。影とは心だし、図書館の女の子の心をみつける場面は重要だと考えられる。心と言われて、うんそう大事なもの、と納得してしまうところがあるが、私たちは心が何なのかわかっているのか。本作の中でも、心が、ではなんなのかということまで深く追究していない。心がある、ないと言葉で言っているだけで、小説世界の中でどのような状態をさすのかわからない。心とは何かを哲学的・科学的に考えるとなると骨が折れそうだ。とりあえずではあるが、心とは感情(を生み出す働き)をさしているようだと仮定する。喜びや幸せを生み出すものだ。「世界の終り」のシステム内にいる図書館の女の子に心が戻る可能性がでてきた。「世界の終り」に留まる理由として僕は、図書館の女の子の存在を一因と認めて「それももちろんある」と答えている。
 しかし問題は残る。それはやはり僕が影と永遠に別れた事実はどう説明するのだということ。影のみが脱出するとはどういうことか。影が無事脱出できたかは定かでないにしても、僕と別れたのは事実で、その後の僕に心はなく、かといって心を殺しきることもできなかったため街のシステムに入れず、街の外の森に住むことになるだろうと示唆される。森に住む生き様を見せられたわけではないので、読者としてはそれでどうなるのかわからないまま投げ出されてしまう。
 私を幸せにするのも振り回すのも、私の心。「ハードボイルド・ワンダーランド」の主人公私がまわりの観察・描写にしつこかったのは、そのような語りが私の心を語っていることになるからだ。「世界の終り」の主人公僕は心象風景という僕の心を結局ずっと語っていた。この小説の表現は、心の存在をつかむことができない人間の不安や絶望の裏返しだ。復活がほのめかされるだけの主人公私や、結末後が曖昧なまま置かれてしまっている主人公僕は、「だってほら心ってこういうものじゃないか、だから……」と提示できなかったことを示している。それができたら、解決とまでいかなくても、物語にもっと明確な結末がありえたのだ。
 私がただの言葉製造機でないとしたら、きっと、私の心というものがあるはずなんだ。そう、思いながら、私は、消える……。