パイの物語 [ヤン・マーテル]

虎 小説を読む

 原題は『Life of Pi』で、映画化もされており『ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日』という邦題で公開された。映画版はファンタジーに寄せていて、映像作品としてはそれで正解だったと思える。本作はパイが語った物語なのだから、彼がサバイバルできた結果は明らかで、その意味ではハラハラ感は減じる。映画はミステリーとサスペンスではサスペンスに寄せるという古典的鉄則があって、本作でもそうしたいところだが、もともとサスペンス要素が弱いのだ。小説版と毛色が違ってしまったが、ファンタジー色を強めた映画版もそれはそれとして十分楽しめる。
 この小説は二重三重の「聞いた話構造」になっている。パイの話をオカモトらが聞き、その二人の話を語り手が聞いてこの本を書いたのだとある。この語り手と作者が同一人物であるかのように書かれているのは小説上の詐術で、創作物なのだから実は当たり前だが、ほとんどすべての内容がフィクションである。物語が語られ、受容されることそのものをメタな視点から想像させる。
 パイの語る物語はちょこちょこおかしなところがありながらも、基本はサバイバルの様子にフォーカスして読み進めるので細部は気にならない。だがミーアキャットの島などにいたるといよいよ妙な話になってきて、第三部からミステリーに豹変する。そこはおそらく小説的に評価されたところではないかと思う。サバイバルもののふりをしてミステリー。そして事実はもっと凄惨なものであった可能性を示唆する。そもそも虎の名前に採用されている「リチャード・パーカー」は漂流と人肉食に関係する名前だった。1838年のエドガー・アラン・ポーによる小説『ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語』で犠牲になる登場人物の名前がリチャード・パーカーである。しかも1884年、ミニョネット号沈没事件という現実の出来事において、生き残った船員に殺され食べられてしまった憐れな少年の名がリチャード・パーカーなのだ。こうした引用・ほのめかしから考えても、パイはうまく話しているが、オカモトらの推理が正しいであろう。
 ではタネをあかされた後となっては、長大な第二部はもったいぶったフェイク部だったということか。そうではない。小説のすべての部分が創作であって、この作品自体がファンタジーでもあったのだ。映画版に、これじゃファンタジーじゃん! と感想をもらしたとしても、元の小説版にかえると、小説だってファンタジーだったことに改めてはっとするのである。だから「本編は第二部」ともう一度、読者の中で解釈のどんでん返しをしたときに、やっと作者が小説内のあちこちにちりばめた哲学的とも宗教的ともとれる文句の意味が繋がってくるのだ。
 獣性はパイの命であり、人間性はパイの死である。正気を保つには神を信じるしかない。そういう極限を知らない人に、非難されたくない。パイの訴えにオカモトもそれ以上問い詰めることはなかった。信じられない話のほうを自ら信じる。それがこの物語、神を信じる物語なのである。