夜は短し歩けよ乙女 [森見登美彦]

京都 小説を読む

 本作の良さは、知らず京都の魔空間(?)に迷い込む突拍子のなさにあると思う。この点は、何が起きているか理解できず評価を下げる人、置いていかれる人もでかねないところだ。京都の魔空間(?)とはなんなのか。それは解釈すべき何かなのか。いや、解釈なんてしようとするほうが野暮という世界かもしれない。例えば、この魔空間は登場人物の心象風景なのであって云々などもっともらしいことを言ったところで、まったくつまらないし意味がない。
 街の風景が読者の目に浮かぶということが、小説の評価をあげる要因になった作品が日本にも海外にもある。あまりに観光地案内をあてこんで書くというのもあざといのかもしれないが、街をめぐっているような感覚が読者に好感をあたえる。本作の本領発揮は、京都の魅力が幻想の中に織り込まれているところである。京都の良さというのは幻想の世界とグラデーションをなしていることを、遠慮なく臆面なく書いたものと思う。
 我々が勝手にいだく「京都」というイリュージョンがある。本作のような試みはおそらく、舞台が京都だから成功した。日本のほかの街でこのようなイリュージョンを人に見せる場所はなかなか探せない。

 森見登美彦デビュー作である『太陽の塔』のような作品のほうが、男子大学生がひとりごちている感じの文体と内容があっている。当然のごとく、主人公は女人とは縁遠いわけだ。だからこそ、『夜は短し歩けよ乙女』のようにうまくいってしまうほうがむしろ文体から裏切られた気がして筆者は楽しい。
 ”命短し恋せよ乙女 黒髪の色あせぬまに” からとられたと思われるヒロインも楽しく書けている。ヒロイン側の視点は、もともとの作風を考えると本来はいらない。本作においては、ヒロインに何を語らせるかの塩梅がうまく、ヒロイン側を書く試みは成功していると思う。男子学生の独り言だけより、これがあることで読者層の間口が広がる効果もある。そういう意味でも本作は森見登美彦の出世作といって過言でない。
 世の中には大真面目な人もいて、本作の、本気の批評をうけつけないところがあるのを感じとって難じる人もいる。筆者は、読書体験が楽しいのが正、という考えの結果として本作があるのみで、それ以外余計なことを考えているとは思わない。衒学とか、メタな視点から物語なんてものは、と言ってみせたいわけでもない。読者の肌にあうかどうかの問題は残るが、それはすべての小説がそうである。
 さて、これはまったく解釈ではなく、第二の読書として、本作内での彼と彼女の邂逅は偶然ではなくて、彼がしっかり追跡した成果であったと強調してみよう。古本のくだりも演劇のくだりも彼はちゃんと狙っていた。そうするとこれは、ストーカーの成功話になる。可愛げがなくなるが、そういう読書もまた楽しい。