銀河鉄道の夜 [宮沢賢治]

銀河 小説を読む

 現在世に出ている宮沢賢治の作品は元来、未発表作であったものが多く、『銀河鉄道の夜』もそうである。また本作は残された最終稿(と研究されているもの)が決定稿であったか不明で、賢治が存命していればさらに手を入れていた可能性もある。
 本作は、不思議なお話、悲しいお話の一つとして通り過ぎてしまうかもしれない。読みは自由なのでそれでもよいが、本作は何かを「希求」するお話だよということを加えたい。
 宮沢賢治は、こうなりたい、こうありたいと願う気持ちに支えられていた。現実の賢治は、出版物で成功したとはいえないまま三十七歳で亡くなってしまった。
 宮沢賢治の文学の背景には、父との主に宗教上の確執や、妹トシの死があった。本作の主人公ジョバンニは賢治であろうが、カンパネルラ(カムパネルラ)のモデルはトシとする説がある。ただもう一つ、賢治の文学には文芸同人との交流の影響も少なくなかったものと思う。カンパネルラは親友の保阪嘉内(ほさかかない)をモデルにしているという説もある。カンパネルラは理想化された随伴者だ。現実の賢治は、頼みとするような随伴者に恵まれなかったと思っていたかもしれない。
 賢治の法華経への信心は、死後のあり方だけでなく、「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」『農民芸術概論綱要』という宇宙的宗教観に昇華していった。こうありたいという強い思いは、現実の自分の生活はこれでは駄目なんだという心の反動を生んで、時に極端な行動を賢治にとらせている。経文を大声で唱え続けたり、急に仕事をやめたりしている。
 トルストイや農学校勤務の影響から、農民のために生きなければならないと決めた。賢治自身は農民ではない。実家は田舎にしてはお金のある商家なのだ。農民という理想、これも「なりたい」なのだ。

われらに要るものは銀河を包む透明な意志 巨きな力と熱である

『農民芸術概論綱要』

 宮沢賢治に関する文章では禁欲が話題となることもある。賢治が禁欲を貫いたと信じる人もいれば信じぬ人もいる。事実は不明確だが、賢治は性についても自分なりにこうありたいと思うところがあったようだ。
 有名な「雨ニモマケズ」の詩は、冒頭だけで忍耐・根性の詩と誤解を受けてしまった。戦時中は「雨ニモマケズの精神で乗り切ります!」と唱える軍人もいた。しかしこの詩(実際はメモ)を最後まで読むと、我慢が美徳とかそういうことが言いたいのではないことが分かる。冒頭は「丈夫ナカラダヲモチ」にかかっていて、病気がちであった自分の人生を振り返って、壮健でありたいと願っている。病気の世話をされる人間ではなく、自分が困っている人のところに行ってやるくらいになりたいと言っている。しかもこの詩全体では朴訥・正直な人間になりたいと言っている。
 そうなりたい、ということは、現実がそうでないから思うのだ。なりたい、なれない、そして迷う。

ああ、なんにもあてにならない。どうして私は私のからだを、黙ってイタチにくれてやらなかったろう。そしたらイタチも一日生き延びたろうに。

この次にはまことのみんなの幸いのために私のからだをおつかい下さい。

『銀河鉄道の夜』

 サソリは多くの殺生をしながら生きていた。ある日イタチに見つかり、逃げのびた次の瞬間、井戸に落ちてしまった。溺れながらサソリは上のように神さまにお祈りした。サソリは天の赤い星になった。
 自己犠牲が『銀河鉄道の夜』の一つのテーマだ。しかしここでも賢治は迷っている。迷いは度重なる改稿にもあらわれている。迷っていなければ、物語は主人公ジョバンニが銀河鉄道で夜の闇に消えていく筋もありえたのではないか。つまりジョバンニとカンパネルラの融合だ。こうすると書きたい筋がはっきりする。だが原稿ではカンパネルラは行き、ジョバンニは残った。賢治はカンパネルラに憧れ、そうなりたい、そうありたいと思っている。しかし自分はジョバンニなのである。本当の幸いのためなら自己を犠牲にする覚悟は自分にだってあるつもりだ。でも、本当の幸いが何かわからない……。これが、賢治の正直さなのだ。
 最終稿は語り過ぎない書き方に変えているが、それがむしろ良いと筆者は思う。さあ自己だって投げ出そうと言いきれていない。でもだからこそ、希求すべき何かについて読者各々が考えられる。
 賢治にとって生きるとは、憧れる遠くの何かに視線を飛ばすことだった。だから現実世界でその視線はよく星空をとらえた。星は我々が目にする中で最も遠いのだ。夢想家といわれようとも、遠くの何かを求め続ける。『銀河鉄道の夜』を希求の物語として再読すれば、そこに望みと迷いで揺れる正直な人間の姿を、きっと見るだろう。