本書は、元は『ことばが招く国際摩擦』という題名だったようで、そのほうが内容をよく表していると思う。新書などではよくあることと思うが、本書は文庫に入るにあたってマーケティングの観点から改題されたものと想像する。「歴史をかえた」というワードと、それに組み合わされる「誤訳」というワードは目を引く。歴史も興味深いが、言葉の問題、文化の問題を見逃さないように紹介しつつ、筆者の考えを述べたいと思う。
鈴木貫太郎首相によるポツダム宣言黙殺発言の訳され方・伝わり方
第二次世界大戦中の1945年7月26日、アメリカ、イギリス、中華民国(蒋介石政権)の連名で、日本に対する降伏要求の最後通牒としてポツダム宣言(Potsdam Declaration)が発せられた。当時の首相、鈴木貫太郎はこれを「黙殺する」と発表した。鈴木貫太郎は「静観する」という意味を国内向けに強めの言葉にしたとしている。黙殺は無視と意味はそれほどかわらないが、あえて無視しているその態度を強めているととられうる。黙殺の文言は日本側で「ignore」(無視)と訳したが、連合国側がそれを「reject」(拒否)と解釈し翻訳した。つまり鈴木発言はポツダム宣言拒否表明である。拒否の明言ととられたならば、その後のアメリカによる原爆投下の決断につながったのではないかということで、戦後に指摘され話題となった。mokusatsuは原爆投下に関して日本の命運をわけたかもしれない単語として、海外でも紹介されている。誤訳・誤解によって原爆投下の決定が左右されたかもしれないとすれば、これは一定の衝撃を受けざるを得ない。
ただし実はこの問題、アメリカ側には誤訳などしていないという論者もいて簡単ではない。明確な返答が求められる状況下で見て見ぬふりをするとかノーコメントを表明するというのは拒否という意味であると彼らは主張する。アメリカだって、時間稼ぎをしたいのが日本の本音だとわかっていたはずだ。日本は戦争完遂論もあるいっぽうで、ソ連による調停に望みをかけ模索していた(これは実は無理だったが、日本はそれを知らなかった)。時間稼ぎそのものがポツダム宣言第五条に反している。無視にしろ拒否にしろ、要求をのまないのであれば日本の都市に原爆投下するアメリカの次のシナリオはできていたものと考えられる。
ここには確かに翻訳の難しさがあらわれていて興味深いが、この誤訳が原爆投下を招いたとまで考えるのはいきすぎていると筆者は思う。問題の所在は誤訳にはなく、黙殺という発表をしなければならなかった戦中日本の政治状況にある。また鈴木貫太郎は、ポツダム宣言はその前にあったカイロ宣言などの再通告であって価値がないとしている。甘い認識だったのか、これも時間稼ぎか。連合国側は、降伏しなければ日本の国土を壊滅させると通牒しているのだ。自滅覚悟で本土決戦を挑むか、降伏するかの最終決断はせまっていた。しかしその決断は、二度の原爆投下とソ連参戦を待たなければ下されなかった。
日本側の意図した内容が伝わらなかったという見方もあると思うが、この件の問題点を誤訳に集約することはできないというのが筆者の考えである。
中曽根首相による日本列島を不沈空母にするという発言有無の二転三転
中曽根康弘首相がワシントンポスト幹部との懇談で、日本列島をソ連に対する不沈空母(unsinkable aircraft carrier)となし、海峡を艦艇・潜水艦が通行できないように制圧すると発言し、日本国内で問題化した。無論ソ連も反応した。そもそも発言をしたのかしていないのかの確認で二転三転し、マスメディア上で長くひっぱられることになった。真相は、内容としてはそういう発言をしたが、単語として「不沈空母」とは言っていないということのようだ。
自主防衛強化は中曽根の持論だ。くわえてアメリカには日本に対する安保ただ乗り論が出ており(今もあるが)、中曽根としてはアメリカ向けに、日本が列島及び近海防衛に積極的役割を果たせると強調したい意図もあった。
発言内容の是非もあったが、不沈空母という言葉のイメージの問題もあり騒ぎとなった。通訳を介した会話の一単語に発言の印象のほとんどを背負わせるのは、本来的議論のあり方とはずれている。とはいえこの件は、訳すという行為で政治上おこりうる事例の一つを示している。
オーク(oak)は楢(ナラ)である
oakは樫と誤訳されてきた歴史を持つ。楢と樫は似ているが、決定的違いがあって、楢は落葉樹、樫は常緑樹なのだ。英語を使用しているイギリスやその周辺に樫は生えていない。樫は南ヨーロッパに分布している。オーク材が有名だがこれも楢で、樫は堅く、木材として使用するとしても一般に楢と用途が異なる。
本書に紹介されてはいないが、筆者の知っている混同の例を書く。
一つ目は棕櫚(シュロ)。聖書その他で棕櫚と訳されているものは、実際は棗椰子(ナツメヤシ)である。シュロもヤシの仲間だが、日本含めた東アジアに分布していて、イスラエルやその周辺には生えていない。
ナツメヤシは英語でdate palm。その実デーツ(date)は日本でも売っているし食べられないこともないが、あまり一般的ではない。中東では馴染のある植物だそうで、コーラン(クルアーン)にも記述されている。
二つ目は橄欖(カンラン)。実が似ているのでオリーブと混同された。橄欖は東南アジアに分布し、植物としての分類系統もオリーブとは異なる別種。今となってはオリーブのほうが日本人には馴染深く、橄欖と言われてもピンとこない。
橄欖石はolivine(オリヴィン)からの訳語だが、これも橄欖とオリーブの混同に由来する。olivineはオリーブ色の石という意味。橄欖石を主成分とする岩石を橄欖岩という。橄欖岩はマントルの主要構成岩石で、岩石名としては比較的よく登場する。
鶯 時鳥 鶫 郭公 ナイチンゲール ……これは混乱する
本書にはさらに、鶯(ウグイス)と時鳥(ホトトギス)の英訳が定まってこなかった事実が紹介されている。鶯はjapanese nightingale, mountain thrush, bush warblerなど様々に訳されてきたらしい。最初の例はナイチンゲールに、次の例は鶫(ツグミ)に類するように表現されている。これらは厳密には鶯とは別の鳥だ。鶯は西洋にいないので表現しきれないのだから、uguisu(uguis)とする案もある。言葉のもつイメージを優先するならナイチンゲールはそこまで遠くない。ただ鶯は普通夜鳴かないのでイメージがぴたりとあうわけでもない。
ホトトギスは漢字で時鳥、不如帰、杜鵑、子規など様々に書かれる。キョッキョキョキクと鋭く、しかもこちらは夜にも鳴く。英語ではnightingale, wood thrush, cuckoo, little cuckooなどと訳されているようだ。またもナイチンゲールや鶫に類する鳥のように表現されている。郭公(カッコウ)は似ているが、何より鳴き声が違う。一般的な郭公はその名の通り「カッコー」と鳴く。また西洋ではカッコウにはずうずうしい鳥というイメージがあるそうで、そこまでのイメージはないホトトギスの訳にあてると、生物学的にはあまり問題なくても文学的には意図しない感覚を提供してしまうかもしれない。これも表現しきれない場合はhototogisu(hototogis)とするのも案だ。ただし、忠実さのつもりでhototogisと訳しても外国の読者はそれに何のイメージもわかないだろうという欠点がある。後述するが、意訳傾向がいいのか直訳傾向がいいのかは一概に決められないと筆者は感じる。
このほか蛙などの動物や、色のもつイメージが文化によって異なるためにおこる翻訳の困難は興味深い。
白足袋が消え、白手袋が登場する『斜陽』 訳の正しさとは
太宰治『斜陽』で、村医者が夫人を往診する場面がある。ここで医者は、白足袋をはいている。ドナルド・キーンはこの場面を英文に訳すにあたって、医者の着る袴も含めて「正装だが、やや古めかしい和服」と訳し、白足袋を消した。白足袋の説明的訳出や注釈をつけることを選択しなかった。すっと読んで入ってくることを優先したのだ。
だがこの村医者はのちに袴を着けず、白足袋ははいた格好で再上場する。やはり最初に白足袋を訳出しておくべきだったかもしれない。ドナルド・キーンはここを「今度は正装ではなかったけれども、白手袋は依然していた」と訳した。白手袋が出現したのだ。このへんは眉をひそめるとかではなく面白いところだ。翻訳の苦労の裏側を見ているようだ。
この例は名訳としてひかれる一方、日本文化の白足袋がもつ意味が消えてしまっていると批判もでた。せっかく日本の小説を読んでいるのに、日本らしい所作や小物が、どうせ伝わらないという理由で消されるか置き換えられるかしているのを、惜しいと思う読者だっているだろう。
翻訳・通訳をする上での大問題として、受け手の文化にあわせるか、語り手の文化にあわせるかという事がある。
本書によれば、アングロサクソン文化では基本的に自国文化にあわせて読者が読みやすいように翻訳を工夫する傾向、フランスやドイツでは対象言語のもっている意味や感覚を読者に「分かりにいってもらう」傾向があるそうだ。
意訳傾向で訳したほうが正しいのか、直訳傾向で訳したほうが正しいのかという疑問の答えは簡単に下せない。翻訳調(translationese)という文章への批判は、つまり悪文であることを言いたいことも多い。ただ、受け手がすらすら読めるように翻訳をつるつるに磨いてしまうと、原文の味がなくなってしまうかもしれない。意訳はどこまで許されるのか。なまじ原語を知っている人が、辞書的意味とあまりに違う翻訳だと焚書を訴えるかもしれない。
翻訳調のごつごつしたところが残ってもいいのか、だめなのか。好みの問題ももちろんある。「正しい訳」とはどうあるべきなのか。意訳・直訳両方のバランスをうまくとったものが良い、とさしあたっての正解を言いたいが、そのバランスも原文の性質や想定する読者の違いなどでかわってくるはずである。
「善処」「前向き」「反省」 曖昧な日本語 母語の重要性
佐藤栄作首相とニクソン大統領の間では、日米繊維交渉と沖縄返還交渉が同時進行していた。アメリカの要求である日本の繊維輸出規制に、佐藤首相が「善処します」またはそれに類する返答をし、その言葉が交渉を進めるような積極的な意味の英語に通訳されたのではないかという説がある。これによって繊維交渉が妥結すると思ったニクソン大統領はその後の日本側の態度に対し、沖縄返還を決めてやったのに佐藤首相は繊維交渉妥結の約束を反故にした、と激怒したらしい。アメリカは脅迫ともいえる態度で日米繊維交渉に臨み、両国関係は悪化した。半導体、自動車、農産品と、戦後の日米関係を語る一面としてはずすことができない貿易摩擦の一端であった。
ここでは通訳の問題もあったかもしれないが、真相は不明のところもあるので置く。それよりも筆者がとりあげたいのは、日本語の曖昧さである。
日本人は誰でも「善処します」にたいした意味がないことを知っている。「悪いようにはしませんので、ひとまず対応はお任せください」くらいのことで、字義通り「最善(次善)の方策をとらせていただきます」という意味ではないことが多い。しかし外国語に直訳されたとき意味の食い違いがおこりうる。
「前向き」という言葉にも触れられている箇所が本書にあって、筆者は以前からこの言葉の曖昧さが疑問だったので、やはりそうかと納得した。前向きは外国語に訳しにくい言葉らしい。本書では「前向きの姿勢」をforward looking postureと訳した例が載っている。
「前向き」は、積極的・建設的であること、過去ではなく将来に向かって考えることというのが辞書的意味だ。ただし日本のサラリーマンが「前向きに検討させていただきますので」など言う時の「前向き」にはほとんど意味がない。前述の善処に似ている。「悪いようにはしませんので、ひとまず対応はお任せください」だ。
くわえて「前向き」は「くよくよしないでやる気を出す」という意味で使われていないかと筆者は感じている。「前向き」は、使うと「いい事を言った感」がある言葉だが、内実は曖昧なのだ。
「反省」も曖昧なところがある。自分の言動の是非を振り返ることで、一般に謝罪やお詫びの意味は入っていない。また「反省」には自分の言動の悪い点を意識して改めようと心がける、という意味もある。親や教師が子供に「反省しなさい」と言う時、「自分の罪を自覚しなさい」という意味も含んでいる。深い反省をするということは、私は悪かったですと認めたという意味になりうる。言い方や使う場面に左右される。
真珠湾攻撃五十周年の時に、渡辺美智雄外務大臣がワシントンポストのインタビューで、真珠湾攻撃を「深く反省」した。日本は戦後、対アジアにはお詫びや反省の文言について国内でもめつつ、節目ではお詫びと反省をしてきた。この例の場合は対アメリカである。この「反省」はremorse(良心の呵責、懺悔)と訳された。ところが、これにニューヨークタイムズが異議をとなえた。「反省」にはremorseのような強い意味はなく、self-reflectionとするべきだとした。これは難しい。単に自己を振り返っているなら、「もっとうまくやれたよなあ」と思っているだけかもしれない。アメリカに対して悪かったという気持ちがどの程度入っていたのか。謝罪の意志まで入っていたのか。
「反省」はいかようにも英訳できるようで、事実これまでも様々な単語に訳されてきたようだ。反省する人の真意がどこにあるのか了解しなければ訳すのは難しくなる。それだけ曖昧に使われている言葉の一つだといえる。
曖昧さは昭和の日本でちょっとしたキーワードにさえなった言葉だ。曖昧な言葉で濁す日本人はよくないとか、逆に曖昧さが日本の良さなんだといった論が盛んに出されていた。
近年はビジネス関連の文書などを中心に、もう曖昧な言い方はやめましょうとはっきりうたうことが多くなっている。ビジネスの現場では言葉でしっかり伝える能力は必須としてますます重要になっている。曖昧さは日本語の特性でも日本人の特性でもない。意識すれば変えることのできる問題にすぎない。
これまで見てきたように、翻訳作業・通訳業務には他言語化できない部分や文化の違いをどう乗り越えるかというところを含んでいて、困難な場面に遭遇することがある。それはよくわかったが同時に、母語として日本語を使う人の意識の問題は大きいと思われる。訳の問題ではなく、そもそも最初に発した日本語の問題だったのではと思わせる例が多くある。我々は英語もだが、日本語をあまり分かっていないのではないか。我々が母語として使っている言葉を再検証することが、もしかしたら国際理解にもつながるかもしれない。そう考えれば、本書のような議論は、翻訳・通訳に携わる人でなくとも関係があるということができる。
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