原題『キャッチャー・イン・ザ・ライ』( The Catcher in the Rye )は「ライ麦畑で捕まえる人」という意味で、邦題にある「つかまえて」というのは誤訳であるという論もあるし、捕まえてほしかったのは、「子供たちが崖に落ちる前に捕まえる人になりたい」と言っているホールデン自身であると解釈でき、邦題は名訳であるという論もある。
「世間的にこう言っておけば、やっておけば格好がつく」と思っている中身のない大人に対して、ホールデンは虫酸が走っている。時代は関係なく、今のアメリカや日本含めたどこにでもインチキくさい大人はいる。現代は特にメディアに登場する人物ばかり眺めていると、ささいな演技くささ・演出くささまでインチキくさく見えることはありうる。
『坊っちゃん』を書いた漱石にも、とかくこの世は生きにくいという感覚があったが、俗物どもに一発喰らわせてから去るぜ、というところがホールデンにはない。ホールデンはともかく内的であり、しかも逆に何度も殴られるのである。
筆者がこの小説を初めて読んだ時には、共感はしつつもホールデンに同化したような感じはなく、どこか淡々と読んでしまった。
ほかの人の感想を見聞きすると、ホールデンはこのままじゃ大人になれないとつきはなしたり、気持ちは分かるけどでもホールデンのような少年のままじゃ生きていけないんだからと心の隅に感情を置いてきたりするものが多いようだ。この小説を一種のノスタルジー小説のようにみる見方もそうだと思う。
筆者の知る範囲では「私もキャッチャーになりたいと思った」というような感想は少ない。やり方は違えど、みんなホールデンをどこかに置いてきている。
大人になるというのは、社会人として世間の荒波にもまれる、だけではない様々な面がある。実際の大人は複雑で、ホールデンの持つ要素は大小あれ皆持っている。だからこの小説に、共感できるところもあるよなあと思えるのだ。表ではインチキくさい言動の大人も意外に、ほっとできる場所では「ああ俺もしょうもないことやってるよな、わはは」と自分を笑っているかもしれない。ホールデンの要素は、大人になったら必ず捨てるべきものだと筆者は断言しない。自分を世間にディスプレイすることを価値のほとんどにしてしまうと、結局は他人の欲望、経済活動の中であつらえられた欲望しか生きることができず、幸せなはずなのに幸せじゃない不思議な状態になることだってありうる。
ホールデンには居場所がない。この小説を青春の感傷ととったり、作者の社会批評と取ったりする批評はその通りだと思うのだが、そこにはどうしても、ホールデンのような少年と社会の間に堅い壁を設定し、少年か社会どちらかを批判する姿勢がある。この小説は過去、反社会小説として読まれたところもある。だが、俺にもそうだ居場所がない、あんなインチキ野郎どもとは折り合えない、とことさら強く受け取るのは、読み方としてどうかと思う。
筆者は、ホールデンの居場所はあると信じる。大人や社会の複雑さを信じたほうがむしろ素直だと、筆者には思えるのだ。