三四郎 [夏目漱石]

グルーズ 小説を読む

 この小説は、夏目漱石が、ある青年像とその周辺の空気を書いたものである。お話というものは、主人公が何かの中に入っていかなければ面白くはならない。組織の中に、敵の中に、洞窟の中に、女の中にというのもあるかもしれない。主人公がただの傍観者でいて話が面白くなることはめったにないのである。三四郎は目前の三つの世界のどれにも入れていない、宙ぶらりんなのだ。三つの世界とは、一つはこれまでの日本・田舎で象徴される世界「すべてが平穏である代りにすべてが寝ぼけている。」、一つは学問・高等遊民的世界「苔のはえた煉瓦造りがある。静かな明日に打ち勝つほどの静かな塵。このなかに入る者は、現世を知らないから不幸で、火宅をのがれるから幸いである。」、さらに一つはこれからの日本・世俗・東京「さんとして春のごとくうごいている。電燈がある。銀匙がある。歓声がある。笑語がある。泡立つシャンパンの杯がある。そうしてすべての上の冠として美しい女性(にょしょう)がある。」である。本作は三四郎の宙ぶらりんを書いた小説なので、お話としてなかなか面白くなれないというジレンマがある。宙ぶらりんを書くのはよいとして、せめて最後はどこかに入り込んだような箇所があってもよさそうだが、それもない。最後まで三四郎は傍観して終わる。だからはっきりした成長小説とも読めない。初めと終わりで三四郎はあまり変化していないからだ。これはなにも起きない小説になっていて、読者はそれを三四郎や美禰子(みねこ)のパーソナリティーにもとめて、この人物はどうすればよかったかとか、あれは気にくわない人物だとかの感想に帰結することになる。
 この小説は題名の通り基本的には三四郎の話であって、三四郎に共感しないと面白く読めない。深い共感ができない場合はどうするかというと、少し離れて(多くは少し上から)三四郎を励まして読む。おそらくそこからもはずれてしまうと、強い起伏をもたない本作は読者の興味から離れると想像する。

 『坊っちゃん』も若さの問題が書かれているが、共感するのにあまり世代は問わないと感じる。坊っちゃんの反発心は、ある青年期のみに特有というより、年をとっても「あんな俗物一発ぶんなぐってやる!」という自分の中の「少年」がくすぶることはあるのじゃないかと思える。対して三四郎の問題は、年をとった人間には共感しにくくなっている。自分の問題ではなくなっている。それは、年をとった人間はたいてい、何かの中に入ってしまった後だからだ。
 さて、ではこの小説は失敗しているかと問われれば、筆者は失敗していないと答える。作者漱石は書こうとしたものを書き得ている。その意味では失敗などしていない。漱石は空気を書こうとした。明治後半の空気、もっといえば日露戦争後の空気だ。空気は流れるものだが、世間から少し離れた目線で(だから余裕派と漱石は呼ばれた)、閉塞する空気だってあるのだと漱石は知っていた。いけいけどんどん、アジアの一等国を自負しようかという日本で、けしてひねくれて言っているのではなく、真面目にこのままだと日本は「滅びるね」と言っているのである。まだどこへも入れていない当時の日本。政治・経済・技術・芸術・文化あらゆる面で入欧しきれない日本。入欧するのが正しいのかもよくわからない、驕りと劣等感が入り混じる日本の通俗世界をも描き出している。
 新しい日本のメタファーとして出てくるのが都会の女たち、特に美禰子である。本作は美禰子がどう見えるかによって感想がかわってくる。
 筆者は、過度に女は謎であるよととれないし、また過度に三四郎のふがいなさを難じる気にもなれない。しかしこのような見方は小説をつまらなくする可能性がある。女の謎が書かれていた方が面白い。三四郎が過度に情けない方が面白い。
 主人公の名前を題名にして、主人公の人物像を書くことに焦点を当てたのはおそらく海外の小説から学んだものと思う。それにしても海外の小説にだってもっと筋や起伏があるものだが、『三四郎』はリアリズムに寄っている。言い換えればこれは「明治あるある」小説だ。ちょっといいなと思っていた女が、人づてに結婚したらしいと聞く。それは当時の「あるある」だったのではないか。何の意味があるのかわからない、轢死があったという挿話。これも東京あるあるではないか。田舎者の三四郎はそういう東京を感じさせる出来事が印象深い。与次郎の弁論活動、これもあるある。明治のある青年像を摩訶不思議は除外して書くと、こうなる。このような人物が、いますよねえ? と提示するだけでよい、それで作品として成り立つ、少なくとも今回はそのような方法論でいこう、ということだったのじゃないだろうか。漱石は全体では様々なタイプの小説を書いている。急ぎ過ぎるくらいやり方を変えている。今回は三四郎らの人物像を面白がってくれれば十分というところではないか。

 三四郎と美禰子が二人きりになる場面は注目で、特に二人して漫ろ歩くところはデートだと思ってもいい。現代からすると、とてもそうは思えないが。この時代男女交際は面倒くさくて、若い男女が二人で歩こうものなら見咎められるかもしれないし、噂されるかもしれない。マジメクンが、女と歩くなんてユルせん! とか言うかもしれない。三四郎と美禰子の邂逅はちょっとしたドキドキシーンなのだが、現代からすると微妙過ぎて伝わりにくい。美禰子はグルーズの絵で形容され、ヴォラプチュラス(voluptuous)という印象を抱かせる。あだっぽいというべきか。美禰子の所作がわざとなのかどうかも人により評価が分かれる。漱石自身は美禰子について「無意識の偽善家」と言っている。なんだ漱石自身がそう言っているのならそれが正解じゃないかということになってしまうのだが……。ヴォラプチュラスな眼は彼女の作為ではないだろうが、発する言葉は意識しなければ出てこないはずだ。すべて無意識に男を惑わすなんて解釈には無理がある。だからここでは「悪意のない演技者」とするのがよいと思う。
 美禰子は迷子の英訳を三四郎に訊ねる。三四郎が答えないでいると美禰子は「ストレイシープ」だと言う。迷子の英訳はほかにも考えられる。しかしあえて「迷える羊」だというのは意味深にもほどがある。ストレイシープはラストで三四郎が呟く言葉でもある。美禰子のSOSに気づけない三四郎のうぶさに読者はやきもきする。何かを気づかせようとしている美禰子はかなり頭がよく、しかも思わせ振りともとれる態度を、三四郎のみならず野々宮に対してもあてつけていて、読者により好き嫌いの分かれるタイプの登場人物だ。ストレイシープとは、私は迷っているということ。具体的にはいずれの男性にすべきかに、という意味だが、もっと敷衍すれば自分の生き方をどうすべきかに、ということになる。そうだとすると、三四郎にはどうすることもできない部分が多い。美禰子はどこか超然と三四郎の前にたちはだかっている。そしてこれが小説内の象徴で、俗世間にしろ学問の世界にしろ女にしろ、若い三四郎にとってはすべてが超然とそびえているように感じる。
 美禰子は行き場がないと感じている。田舎の女からするとはるかに自由人である、男に金も貸せる美禰子がである。この時代は人の妻になるのが仕事みたいなもの。結婚で美禰子の親はやあ片付いたとほっとしたろうが、美禰子は様々な生き方がありうると学び始めた新しい女だった。その女が若くして持ち込まれた縁談に乗るという、当時の女性としてしごく普通の道を行く。三四郎は自分がおいていかれた気がしたろう。ただ美禰子にも、ほかにありえた人生をおいてきた感覚はあったのではないか。二人して、ストレイシープなのであった。
 美禰子はキリスト教徒であることがのちにわかるのであるが、美禰子の本心が、神様でもないのなら普通の男に私を救うことなんてできない、ということだと取るのは大きくし過ぎだろうか。そうなると三四郎は当然として、野々宮にだって救えない。野々宮は美禰子に未練を感じたのか、すっぱり諦めたのか、ついにあきれたのか……そこまでの真相は、よくわからない。