本作は、小説にある種の理想を見たい人や、ロマンを追いかけたい人を失望させるかもしれない。恋する男の馬鹿正直ともいうべき心境が描かれる。書き様は露悪的である。
小説内で、主人公時雄と恋の相手芳子に表面上の事実は何も起こっていない。これは心理を描いているだけの小説なのだ。現代エンタメ小説なら、もっと物語を動かさないとだめだよ、とアドバイスされかねない。時雄は芳子周辺に起こる出来事に一喜一憂。なにもしない、起こさないが、芳子に恋人ができると内心は嫉妬の渦だ。しかも芳子の貞操が気になってしかたがない。これもまた馬鹿正直であり滑稽だ。男の考えることなど百年二百年たってもかわらないという証拠の記録、ともいえる。恋する男が外面立派なことを言っていても、内心を開陳すれば性の進行のことを考えているという暴露。しかもこの場合は自分の性の進行ではなく、芳子の性の進行で、二十一世紀たる現在からするとまったくよけいなお世話である。
明治の時を思えば時雄はじめまわりの大人の心配や諌めも当たり前のことなのだろう。内心はともかく、時雄は芳子の恋を見守り教訓し、表立って邪魔したり奪ったりしていない。夏目漱石『こころ』の先生は奪った。時雄は「いい人」だ。だが、かっこわるい。別に、奪えばかっこいいというわけではないが……。このうえさらに、あまりの未練に芳子の持ち物や蒲団の匂いをかぐというラストが拍車をかけてかっこわるい。「なんだか気持ち悪い」というような感想もある。ただし、変態小説だなどというのはいくらなんでも誤解である。主人公のかっこわるさは、太宰治風な「かっこわるい僕を笑ってください、はは」というつもりでもない。田山花袋は、このような小説が書けるはずだという文学的信念から本作を書いた。筆者はさきほど露悪と書いたが、花袋は自ら「露骨」であることをよしとしている。
内容は現代から見るとそれほど衝撃ではない。ただ、日本文学史上で画期をなしたのは事実だ。花袋のいう自然主義的手法はすぐに擁護の評論がでて、文学的認知が定まった。そしてのちの私小説の萌芽となった。
本作が自然主義小説として成功しているとは言い切れない。そこに挑戦している小説だ。花袋は持論として平面描写を唱えたが、この小説はそれも徹底されていない。一方、当時の評論家や読者が、告白小説・私小説につながる要素を高く評価したことから論点はそこにうつってしまった。しかもそうした流れができたのち、本作は私小説としてはむしろ中途半端だったとさえ振り返えられた。さらにのちをいえば私小説は純文学とされ、日本独特のジャンルを形成するにいたるのだが、このことが日本の文学にとって良かったのか悪かったのかはここでは置く。
時雄は己の悩みを人生の悲哀だとまで言う。誰と結ばれるかは運命みたいなもので口惜しいというわけだ。ここには恋の問題もあるが、実の問題は時雄がここ数年で抱えた生活の寂寞にある。それを芳子に慰めてもらいたいが、自分の思いは芳子を犠牲にするかもしれないと逡巡する。
結末は、時雄も妻も芳子も田中もみな不幸だ。しかし冷静な判断として、不幸などと言ってもそれはその時の感情の問題で、長い目でみればこれでよかった、という意見もあるだろう。芳子が田中にしろ時雄にしろ、恋に突き進んだとしても不幸になっていただろうという人もあろう。だが未来はどうなるかわからない。わからない未来を引き受ける余裕は、むしろ若者にこそある。大人には経験と分別があり、なるほどその意見は傾聴すべき点が多くある。が同時に、他人の未来に対する決めつけとも思える裁断もまたある。明治の世ならこの圧力はなおのことだ。その土壌のうえで開陳されるのが時雄の内心だ。それは芳子の行く末を本当に心配しているというより、芳子が「したのかしていないのか」ということをなにより気にしている。自分が演じる建前に敗れて泣く男……。立派なのか情けないのかわからない。
結果的に人の恋を壊しておいて、自分は夢想と未練にひたる手前勝手を描いたリアリズムとも評せる。恋人田中こそ、それと同等かそれ以上の嘆きや後悔、煩悶があったはずだが、作者はそのことを描写しない。妻には飽いて興味はないし、田中の心情などにも関心はないというのが本音としても、では芳子の心情は思いやらないのか。本作は形式として三人称小説なのだが、主人公の行動はどうだったのか検証する作者の目線がない。
一人称小説なら小説のルール上書けることに制約があるのはわかる。それでも主人公が他人の気持ちを推し量る描写はできる。
三人称小説ならいつも作者と主人公は離れているべきということではなく、三人称小説であれば視点が選択できるのに、たまに芳子の心情描写をいれながらも肝心なところではそれは無視して、ほとんどの描写視点は主人公に集中しているのは注目すべきだと筆者は思うのである。三人称単視点で書くことは、もちろん一般に問題ではない。日本語は主語が省略できるので、「思った」該当人物が自明であれば書かなくてもよい(一般に文章を書くのに慣れないうちは主語を明示したほうがよいと思うが)。だからそこも問題ではない。ただこの小説に限れば、全体がここまで主人公時雄の心境に寄っているなら、一人称で書かれてもよかった。三人称で客観描写のふりをしながら、実はほとんど主人公の視点で書かれており、だから読者は独白されているような印象になる。これがねらったもので、一方的なことを書いている小説として奏功しているといえるのか。多くの論者・読者には窮屈な小説世界をしか感じさせないのではないか。このような人物心理を中心とする小説の場合は、三人称であることを活かして主人公以外の人物描写を掘り下げてもよかったのではないか。などの疑問がわいてくる。
本作は題名にもなっている蒲団が出てくる場面が有名で、そこだけで語られがちだし、「なんだか気持ち悪い」などの感想もそこのみに起因していると思われがちだ。作者花袋は「ありのまま」に書こうとしたが、その「ありのまま」は主人公の心情吐露に集中している。読者が主人公の行動に入っていけない、ましてや気持ち悪いなどと思うのは、三人称小説にもかかわらず、ただただ一凡夫の独白を聞かされた感覚になるこの語りの手法、文体のためではないだろうか。