冒頭一行目にラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』が出てくる。同じラヴェルに『水の戯れ』という曲があるが、筆者はこの曲を「感情をこめて」弾かれると興ざめしてしまう。感情をのせるのがいつだって善とは思わない。
本作の終盤で、主人公のピアノの弾き方が変わるのは重要な場面だが、この変化が何を表しているのかはわかりにくい。これは筆者の私見なのだが、この時期の少年少女の死への接近は、実は過剰な自意識の産物ではないだろうか。自分の思い通りに弾きたい、それが音楽のはず。そういう思いから離れて、テンポ正しく弾いた時、主人公には新たな発見や充実感があった。これは彼の成長を表しているのはもちろん、自殺という観念が頭から消えていっている象徴ではないか。彼を悩まし様々な思いに駆らせる強い自意識が、別のなにかに変容したということではないだろうか。
きっと数ある小説の中には、読むのにちょうどよい年齢が想定できる作品がある。すべての小説がそうだというのではない。よい小説の多くは、例え青春小説であっても、人生の色んな時期に読み返してみて、違った感情・感覚で読めるものである。ただ中には、ある年代でしか強い感興をおこさないのではと思えるものもあるのだ。それはけして、その小説が拙いということではない。十代向けだからといって価値の低いものだということではない。
本作は、読者があまりに幼すぎると意味が分からないだろう。また通常のおとなにとっては、この物語そのものを体験したはずはないのに、もうし終わってしまった出来事を見せられた気になる。なぜか。おとなはすでに多かれ少なかれ心の中に、忘れたくないこと、忘れたいこと、生、死、異性のことなど様々な事柄をしまい込んだり抱えたりしながら生きている。良いことであろうが嫌なことであろうが大事なことであろうが些末なことであろうが、何かを抱えながら生きていくことはすでにあたりまえすぎるのだ。子供にとっては、おじいさん・おばあさんは歳をとったおとなに過ぎないが、おとなになると、おじいさん・おばあさんというのは人それぞれ語りつくせぬ出来事を心中に持っている、秘めていることが想像できるようになる。自分もそういうものが積み重なってきたからだ。十代はまだ、おじいさん・おばあさんが、いろんないろんなことがあったのち、今自分の目の前にいることに思い至らない。でも想像できる年頃にはなっている。十五歳前後なら、本作の主人公のように、死を抱えるということが生きる力になりうることを理解できる。
本作は恋愛小説とはちょっと違う。読み方は自由だからそう読んでもいいが、『いちご同盟』の由来となる友情も軸になる。ピアノや野球に秀でる主人公たちの状況・環境は特殊なようにも見えるが、その心の葛藤は、特別におこっていることではなく、ほとんどの人が経験したはずのことだ。自分や他人の死を思うことで、どこへも行けない気持ちになる主人公の、成長小説。それを物語の形で読むのはやっぱり、多感な時期になっている十五歳の前後が適しているだろう。