オーデュボンの祈り [伊坂幸太郎]

案山子 小説を読む

 伊坂幸太郎デビュー作である本作は、単行本が売れず幻の作品となりかけたそうだが、今は日の目を見ている。ミステリー・推理小説の内実は、多くは外連味とおどかしだったのは史実。それらにくらべると本作には全体として軽みがある。そこはむしろ魅力だと感じる。
 ただし「これミステリーになってるの?」という疑問や論争が(また)起こりかねない作品ではある。
 ミステリー・推理小説が、作者と読者によるある種のゲーム・頭脳ゲームだとすれば、本作のようなやり方もありなのだと筆者は肯定する。超現実の世界ながら、ある程度論理的に考えることも可能になっていて、そこが奇妙で面白い。
 ゲームはフェアでないとつまらない。だから、ミステリーにはフェア・アンフェア問題がつきまとう。一般に、ミステリーにはルール・不文律がいちおうある。たくさんあるのだが、その一つが、終盤に謎解きが開始されるまでに、推理するためのヒントは出尽くしているべき、というもの。重要な材料がまだ提示されていないなら、読者はまともに推理できるわけがないからフェアではないというわけだ。
 本作でも途中ちゃんとヒントは出ているのだが、カカシの優午周辺の事物の繋がりを推理しきる人はそういないはずだ。殺人は、風が吹いたら桶屋が儲かる式の弱い連鎖で発生していて、それを見切れるのは未来がわかる不思議なカカシ、優午だけなのだ。その意味では、してやったりなのである。ヒントはちゃんと出しました、と言われたって多くの読者には分かるわけないのである。それでも、結末がなんだか腑に落ちる、奇妙な小説なのである。いや、腑に落ちた人は荻島の世界をもう受け入れてしまったというべきか。

 カカシという設定もきいていて、これが人間の予言者だったら読者はもっと想像たくましくして真相にたどりつく人が増えたのではないか。カカシだから、できるわけない、するわけないと思考が逃げていきやすい。
 作中、カオス理論がもちだされる。 バタフライ・エフェクトという有名な例えがある理論だ。未来の予測困難性に説得力を与える。ただ、予測困難性の説明のためだけに登場したのではないように筆者には思える。というのは、カオスという運動は決定論なのである。確率論ではない。優午は、この物語を決定することができるのである。

名探偵は、物語の一つ上のレベルに立っている。そうだとすると、優午も同じ立場に違いなかった。僕たちの物語を救うのではなく、さらに上の次元にいる誰かのための存在なのかもしれない。

 上の本文引用の通りだとすると、最後のページで優午がそっと笑うのは、可能性とはいえ自分の未来が見えている事への悲哀や諦観、または百年後うまく事が運びそうなことに微笑んだ……の、ではなくて、読者に笑ったのでは? と筆者流に解釈することだってできる。まったく、人を食った、愉快なカカシじゃないか?