「よながひめとみみお」と読む。坂口安吾は『堕落論』などの評論が有名だが、『白痴』『桜の森の満開の下』など小説もよい。今回取り上げる『夜長姫と耳男』は、書き様が拙いのではと疑わせる箇所もあるが、語り手である主人公の気質をそのまま文章に反映させようとしたのかもしれない。
耳男は彫り物の勝負に勝って二回目のミロクを彫ることを許された。二回目になると耳男は、いまは心に安らぎを得て素直に芸と戦っているから、前回より今回の自分の方がまさっていると考えた。だがそんな耳男の考えを姫は完全否定した。一回目の、心に修羅が宿ったように、蛇の生き血をすすって刻んだバケモノのほうがよかったと言うのである。
好きなものは咒(のろ)うか殺すか争うかしなければならないのよ。お前のミロクがダメなのもそのせいだし、お前のバケモノがすばらしいのもそのためなのよ。いつも天井に蛇を吊して、いま私を殺したように立派な仕事をして……
この小説のテーマとして、少女の無邪気さへの畏怖と憧憬、と読むのがまず最も順当と考えられる。同時に、芸術へ向かう態度の問題が書かれている。
耳男の気持ちの明示がないため、推して察するしかないが、耳男は姫に恋をしているととることも可能と思う。これが恋愛の話なのかどうかは読む人によるとは思う。耳男が姫に恋をしていると感じて読むか読まないかで読者の印象も変わってくる。
上の夜長姫のセリフを置き換えてみると、「芸術を志すならそれに身を捧げていることを呪いもし、なきものにしてしまおうとも考える。そうでなければ芸術の成果は争わなければならない(奪い取らなくてはならない)」
芸術を夜長姫として置き換えると、「私に身を捧げていることを呪いもし、なきものにしてしまおうとも考える。そうでなければ私のことで争わなければならない(奪い取らなくてはならない)」となる。このように置き換えられるとすると、芸術と夜長姫はこの小説の中でオーバーラップしている。耳男が姫を好いていなければ、この照応は出てこない。決意して夜長姫を刺したはずだが耳男は泣いてしまい、しかも最後には気絶する。耳男には心情の混乱がある。夜長姫はおそらく、耳男が自分を好いていることを感じている。だから、今私を殺した気持ちで仕事をしろ、と遺言するのである。耳男が口汚いわりには小心者であるという人格設定も物語の構成に説得力を与えるものではないかと思う。
姫に対する愛憎が芸術を生み出す力になっている。オレの作品を叩きつけ、ひれ伏させてやる! という気概がバケモノを彫った時にはあった。夜長姫を殺そうと思った気持ちと作品をつくる時の気魄は同じものなのだ。そして深読みすれば、私と結ばれるのにもそういう気持ちがなくてはいけなかったと姫は言いたかった。そう、姫を止める方法はほかにもあった……かもしれないのである。